鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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きる。問題は本尊の阿弥陀三尊像であるが,残念ながら京博本の興福寺曼荼羅では,彩色の剥落のため両脇侍像がどのような形式なのかはっきりしない。それでもかつて毛利久氏は,両脇侍像の脚が「それぞれ片方を踏下げているようにもみえる。」と記しておられた(注14)。京博本の興福寺曼荼羅に次ぐ重要性を持つと言われるのが興福寺に伝わる春日社寺曼荼羅で,鎌倉後期の制作と推定されている(注15)。その講堂阿弥陀三諄像を見ると,中尊は説法印を結び左足を外にして結珈践坐し,左脇侍像は左足を,右脇侍像は右足をそれぞれ踏み下げている(図11・12)。これは明らかに古様の図像形式である(注16)。この基本形式は時代の降った春日社寺曼荼羅でも踏襲され,一例をあげると,文明8年(1476)の箱書のある奈良・久度神杜本でも,中諄の結珈跛坐が右足が外になるほかは,興福寺本と変わらない。ところでこうした絵画遺品を参考にする場合,問題になるのは,それがいつごろの景観を写したものかということであろう。京博本興福寺曼荼羅については,治承兵火以前の状況を写しているとする毛利久氏の説(注17)が,これまでほぼ定説とされてきたが,これには問題が残るようで,むしろ鎌倉再興時の状態を写したものとする藤岡穣氏の説(注18)もある。いずれにしても興福寺の仏像や建築は,旧軌を踏襲する傾向の強いことが指摘されており,従属的な尊像はともかくとして,少なくとも一堂の本尊とその両脇侍像の図像形式は,旧像のそれを忠実に踏襲する可能性が極めて高いと思われる。従って先にあげた絵画遺品の景観年代が鎌倉復興時ならば言うまでもなく,たとえ治承兵火以前をあらわしたものであったとしても,院尊は焼失した旧像に忠実に,両脇侍像を片足踏下げの形式に作ったと考えてよいであろう。問題はこの興福寺講堂像と長講堂像との制作の前後関係である。院雌が担当した興福寺講堂諸仏は,文治2年(1186)10月にすべて完成しているが,実は全部の像がこの年に造立されたのではなく,5年ほどの間に次々と造立されていったのである。おそらく施主側の費用調達の都合によるのであろう。その経過を次の表に示しておく。これによれば,弄永元年(1182)10月に講堂本腺の丈六阿弥陀如来像が造立されてから,まる三年以上も両脇侍像の造立が見送られており,ようやく文治2年(1186)10月に至って両脇侍像の完成をみることになる。三尊形式の造像としては異例と言えるが,先にも記したように費用調達の問題があったのであろう。長講堂像の造立が痔永3年(1184)と考えられるから,単純な前後関係で言えば,長講堂像の方が先行し-25 -

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