出典事項0興福寺講堂諸像造立の経過玉葉制作年月日養和1(1181) 7月8日講堂諸仏御衣木加持9月22日維摩・文殊像造立寿永1(1182) 10月2日中尊阿弥陀像造立2 (1183) 3 (1184) 文治1(1185) 2 (1186) 10月5日観音・勢至像造立(四天王像も同時の造立か)玉葉” 10月10日講堂諸仏すべて安置たことになる。しかし院尊が,両脇侍像を含む興福寺講堂諸仏の担当仏師に決まったのは,養和元年(1181)のことであり,既にその時点で,造立すべき講堂諸仏の図像形式などは検討されていたであろうし,翌舟永元年に中腺阿弥陀如来像の造立に取りかかった時点で,院淳としては,時を移さず両脇侍像の制作に着手できる態勢にあったと思われる。言うまでもないことだが,三尊形式の像なら,両脇侍像が揃ってワンセットだからである。従って院尊が,片足踏下げの両脇侍像を伴う三尊形式という,当時としてはかなり珍しい図像に強い関心を抱くようになったのは,やはり興福寺講堂諸仏,とりわけ阿弥陀三尊像の再興造立という仕事に直面したからだ,と考えるのが最も自然な解釈であるように思われる。もちろん長講堂阿弥陀三尊像は後白河法皇の発願であるから,担当仏師の一存でその図像形式が決定できるものではないが,仏師の発意を法皇が承認することは充分考えられるし,またその際,法皇の意向で修正されることもあり得たであろう。長講堂像が,両脇侍像の片足踏下げ形式以外の点では,興福寺講堂像の図像形式と同じでないのは,法皇の意向による修正が加わったためかもしれない。5.旧派仏師の造形意識これまでの考察が正しいとすれば,院尊が長講堂の両脇侍像を片足踏下げの形式に作ったのは,彼の自発的な古典研究の結果というよりも,興福寺講堂像の再興造立という機会に直面して,その必要上古い図像形式を調べなければならなくなり,この珍しい形式に関心を抱くようになった結果である,ということになろう。しかしたとえそうだとしても,古い片足踏下げ形式を単に復興像だけに留めることなく,新造の作II 養和元年記II FF -26-
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