鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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品に取り入れようとする造形態度の中には,定朝以後継承されてきた定型から離れて,新しい仏像表現を模索しようとする意思の存在を,多少とも認めることができるであろう。片足踏下げ形式以外にも,長講堂両脇侍像の髯が,十二世紀半ばころまでの菩薩形像のそれに比べて著しく高くなっていること,髪際だけではなく,地髪部・髯部から後頭部に至るまで細かい毛筋彫りを施していることなどは,時代の新しい傾向に無関心ではいられなかった院尊の意識の一端を物語っている。しかしそれと同時に長講堂阿弥陀三尊像には,伊東氏の指摘されたように,中尊の面貌が法金剛院の阿弥陀如来像のそれに酷似している点に窺われるような,院派の作風伝統に忠実であろうとする一面もまた認められるのである。このような矛盾した造形志向がひとつの作品に並存しているところに,平安末期における1B派仏師の造形意識が端なくもあらわれている。つまり,一面では定朝の定型から離れた新しい仏像表現を模索しながらも,他面では,これまでの院派の作風伝統から訣別することもできない,というジレンマの状態にある院尊の姿が浮かび上がってくるのである。そしてこのような意識は決して院尊一人だけのものではない。同様のことは明円の大覚寺五大明王像についても,ある程度あてはまるであろう。そしてそうした彼らの意識こそが,はっきりとした造形の方向性を定めることを困難にした最大の要因だったのである。おわりに本稿では,十二世紀後半における旧派仏師の新様への模索を示すものとして,彼らの一部に見られた古典研究に焦点を当てて論じた。それは,奈良仏師における同様の試みと比較するのに好都合だったからでもある。それ以外にも,長講堂両脇侍像や妙法院普賢菩薩騎象像などのように,両肩を覆う天衣前面の,体幹部材に懸かる部分を別材貼付けとする作例や,醍醐寺炎魔天騎牛像のように,瞳に別材を嵌入する作例なども報告されている(注19)。特に後者は,宋彫刻の影響ではないかとも言われている。これらの技法は,古典研究と同様に新しい様式へと発展する契機を多少ともはらむものと言えようが,それだけでは単なる珍しい部分技法というに留まる。定朝様の仏像に代わる新しい仏のイメージの全体像,あるいはそこまで明瞭ではなくとも,造形のはっきりとした基本方向を欠いては,古典研究であれ,宋風摂取であれ,新しい造形様式の創造にはつながっていかない。それは,当面する類型化・マンネリズム化を,少し目先を変えることによって,一時的に糊塗する役割しか果たせないのではないか。-27 -

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