鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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注(2) 『吉記』痔永2年12月10日の条。(3) 『山棟記』文治元年8月23日の条。(6) 『山丞記』文治4年12月21日の条(『大日本史料第四編之二』484頁所収)。成4年(9)平成4年12月21日に,水野敬三郎・清水箕澄・山本勉•松浦清・武笠朗・奈良仏師の康慶や運慶は新しい造形の基本を,仏の実在感を強調する方向に求めた。それは具体的な形としては,肉身や着衣の写実性の追求となり,また彫刻的な立体感・量感の強調となってあらわれた(注20)。院尊をはじめとする京都の旧派仏師に欠けていたのは,まさにこの点である。それゆえに彼らは,定朝様の定型から部分的に逸脱する様々な形式や技法を試みながら,結局それを,ひとつの新しい様式に統合することができなかったのである。鎌倉時代に入って,康慶や運慶らの新様式が世に迎えられるようになると,旧派仏師たちも新様式への接近をはからざるを得なくなった。彼らがどのような過程を経て新様を摂取していったかは,美術史的にたいへん興味深い問題であるが,今はその検討を他日に期すこととしたい。(1) 院尊の生涯と業績についてのまとまった論考としては下記のものがある。清水箕澄「仏師院尊論」(『成城短期大学紀要』19号)昭和62年(4)八代國治「長講堂領の研究」(『國史叢説』所収吉川弘文館)8頁大正14年(5) 『吾妻鏡』文治4年4月20日の条。(7)伊東史朗「院政期仏像彫刻史序説」(『院政期の仏像』所収岩波書店)233頁平(8) 注(1)の清水論文190頁松田誠一郎・藤岡穣の各氏らと実査を行った。その詳細については別の機会に譲るが,頭部と体幹部の木寄せが異なり,かつ頭部の首柄部に割首のような墜痕があるのに,首柄部は体部の肉厚よりも像内に入り過ぎているなど不審な点があり,中尊像の体部は後補の可能性がある。(10) 井上正「定朝以後の諸相」(『日本古寺美術全集9神護寺と洛西・洛北の古寺』所収集英社)102-103頁昭和56年(11) 注(7)の伊東論文238頁-28 -

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