この意匠がどのような言葉で表現されていたのか,またこの意匠がどのような性格の演目に釣り合うのかという点においては,文学性豊かな日本の美術を研究する上でも貰重な資料となろう。周知のとおり,加賀藩は陶磁器・漆器・染織の産業を江戸時代を通じて積極的に奨励していたから,工芸における美術研究においても重要な位置を占めている事はいうまでもない。加賀藩における能楽は五代綱紀が宝生太夫将監を召し抱えたことに始まり,その後も細工書の職人たちにも能の一部を伝授させ,教養を深めさせると同時に,領内の士庶にも奨励した。以後十五代までの藩主たちもこれを愛好し,ついには“加賀宝生”という言葉が生れるほどの宝生流の一中心地となったのである。文化8年(1811)の書留によれば,藩のお手役者・町役者の総数は250人を数えたという。畳紙の墨書中にも何人か能役者の名前が見えている。(資料1-5,8, 33, 38など)なかでも,徳川家斎・家慶に師範役として仕えた宝生流15代太夫の「宝生紫雪」(弥五郎・友子に同じ)の名前が何度か登場し,様々な装束の演能における使い道をアドバイスしている様子が伺える。いわば,当時のお家元の助言のもとに,その装束の演目を決めたり,扮装を整えていた訳であるが,別の視点から能の演出の手本となるべき当時の幾つかの「型付け」の資料を調べて行くと,この助言が必ずしも決められたとおりではない事実が浮かんで来た。この「型付け」とは22種の能装束からどのような形で何を着こなすか,その演者の出立を明文化したものである。この問題は能装束の色彩や意匠が演目の内容に反映している,という考えの上においては,決まり事だらけではない,“美”への自由な創造や工夫が,一見規制づくめに思われる式楽の中にもあった事を示唆している。芸能史の面からは大阪大学の天野文雄助教授より,江戸後期から能の演出形態は現代に至るまで殆ど変わっていないのではないかというご意見をいただいたが,私としては現代のように,全ての演目に対しての様々な扮装に関する型付けのような決まり事は300年の間に式楽として固定されていったものではなく,むしろ全国の大小さまざまな流派の分家が持っていた能の演出が,明治の混乱期に非常な勢いで淘汰された結果,共通の演出を整える便宜上の要素として,近代から重要視されていったのではないかと考えている。このような出立のみならず,装束自体のデザインという点では,前田家の装束はエ夫をこらした,ある意味では奇抜ともいえる意匠のものが多く見られる。江戸後期における全国の能装束の作例から見ると,全体的に格子や縞,小紋に贅を尽くすといっ-31-
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