た服飾の流行が,この“舞台衣装”にも影響したことが伺える。縞や格子といった直線文様の流行に関しては,たとえば,地文様にこれらの細かな文様を据えて上文様を織り出した唐織や,逆に格子や縞を絵模様の上にかぶせる意匠が江戸後期の小袖型の能装束に散見される。前田家の装束にも“替り小格子”とあるように,(資料1-1, 38)格子をチェック文様のように交差させるのではなく,全体を篭目状に織り出したり,また,地の白地部分にわざわざ紗綾を織り込んだ意匠にするなど,非常に手の込んだ意匠表現がなされている。ところがこうした殆ど目に見えないような仕事を好む一方で,“桃色金二而山道”であるとか,“花色地金ニテ雨龍等鱗形”といった,モダンアートのような大胆極まりないデザインの摺箔を作っている(資料1-2, 35)。さらに,資料1-18の紫地に富士山が大紋となっている長絹は,非常に写実的な金の霞のかかった雪山を前身頃に二つ,後ろ見頃に三つ大きく配しており,長絹の意匠としてはかなり珍しいものといえよう。また,資料1-5は能装束として織らせたものでなく,前田家で収集したと思われる裂を装束に仕立てたと考えられる。これは紺の編子地に一段ずつ向きの異なる花形の龍丸文様と,乱舞するような写実的な表現の蜻蛉を茶で織り出した緞子の装束で,中国風の風合いが感じられる。しかし,この裂が墨書中にあるような安政七年(-八六0)ごろの中国製品とは,中国の国内事情から考えにくい,というご指摘を小笠原小枝氏から頂戴した。あるいは,この年代より以前に手に入れたものを,何かの折りに仕立てさせたのかもしれない。未見であるが,前田育徳会の蔵品である“色無金入蜀江形大丸紋唐織”の畳紙に“御唐織古渡無色金入蜀織,嘉永五年御仕立御用方,弥五郎申上別記”とある装束があり,あるいはこの能装束と同様に,中国明時代の古渡りの裂かとも考えられる。この資料1-5の緞子の装束には,実に十五曲もの演目の見立てがあり,非常に興味深い。曲名の最後についている前・後の別は,それぞれ前シテ・後シテの事であろう。演目を見て行くと,いわくありげな老人の前シテ(貴人の亡霊の化身,神の化身)や唐・天竺の人物(仙人,陰士,官人の老人など),あるいは僧や男巫女といった役どころである。とくに龍や蜻蛉の意匠にこだわらず,緞子をつかう角帽子や腰帯のイメージに準じて,老体や唐の人物を想定したと思われる。さて,これらの装束を年次順にまとめたものが資料2である。前述したように,近代における売り立てなどで,相当数の江戸時代中期以降の能装束が出ていると考えら-32 -
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