6.「美術協会に於ける九鬼氏の演説」リ」とする。この点を次の資料にみるように森鵡外から批判されることになる。4.森鵬外「外山正一氏の画論を駿す」『しからみ草紙』明治23年(1890)5月…ラスキンが西暦十九世紀英吉利の少女を基として「マドンナ」を画くことを知らぎる英国の画人は「マドンナ」を画き損じといふ説などを挙げたり…(中略)夫れラフアエルが「マドンナ」を画きて猶太人となさずしてウルビ人となしラスぎこが「マドンナ」を画かんとする英人に西暦十九世紀の英吉利少女を基とせよと教えたるは璧へば猶,シェクスピヤが戯曲中の伊太利人に英人の性を備へたるもの多きごとし是れ国風の詩に入る道理にして遠く其源を尋ぬれば経験の美術に使はるゞ用縁なりラファェルの伊太利画家たる所以,シェクスピヤの英吉利作家たる所以は或は此に在らむ先の外山の講演に対するさっそくの反論の一部である。想像に対する鴎外の考えを述べるところであるが,これだけでは果たして鴎外がラスキンを読んでいたかどうか判断がつかない。5.森田思軒「尤憶記」『国民の友』第91号明治23年(1890)8月13日…(郷里に帰省して)…今弦は温泉に暑を避けんなど思ふ折ふし止み難き家の事も起りたればかたがた復たーたび帰寧するに決せるなりラスキンが謂ゆる蔓條体の雲を仰ぎバイロンが歌へる壮絶の大洋を渡りて以てモントゴメルシーの珍重せる天錫の福地目は別様の明光を放ち月は別様の清夜を作し…森田思軒の短編「尤憶記」からとった。本資料で興味深いのは,森田がラスキンの雲の観察について知っていることである。「謂ゆる蔓條体の雲」という文章は,明らかにラスキンの『近代画家論』の一節を知ったうえでの言葉である。-43 -
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