エセチカルコンシアスネスベルセプチヴトルーストルース7.北村透谷「萬物の整と詩人」8.島村抱月「審美的意識の性質を論ず」『国会新聞』明治26年(1893)5月5日…(フラ・アンジェリコやデューラーのことに続けて)ラスキン翁の口を極めて称賛せるタルナルは此性質に富めるに非ずや…本資料は,明治26年の4月30日に美術協会において行われた九鬼隆一の演説の一部である。ターナーの引用のうえでラスキンを引きあいに出している。『評論』第14号明治26年(1893)10月7日…宗教の中の宗教とすべきはその人性人情に感応する所多きにあり。モーラリチーも亦た然らんか。美術も亦た然らんか。必党するに宗教も美術も人心の上に臨める大感化力なるに於ては相異なるところあるなし。然れどもラスキンの言へる如く美術は道義を円満にするの力を有すれども宗教の如く道義を創作することは能はず。宗教の天啓たるが如く,美術も亦た一種の天啓なり,宗教の高尚なる使命を帯びたる如くに美術も亦た高尚なる使命を帯べり。…北村透谷の短いエッセイの一節である。万物すなわち自然とその自然の美を歌い上げる詩人について論じたものである。引用されたラスキンの言葉が.ラスキンの著書のどの部分から取られたのかは現在のところ不明である。『早稲田文学』明治27年(1894)9月〜12月第二,審美的意識の要素五),実と仮と,実在と現象と,形と想と,自然美と芸術美と,写実的と理想的と,自然と芸術との関係に連なり来たるは写実的と理想的との問題なるべし。ラスキンは盛に摸倣を排撃して,実(Perceptivetruth)と真(Truth)とを区別し,美術の本旨は真を写すにありて,実を写すにあらずとせり。其のいはゆる真は,幾分か吾人の想といふものに似たれど,道徳の色を帯びたる点に於て相違し,むしろ概念に近き嫌あり。実のかたは梢、吾人のいはゆる形と通ず,すなはち知覚図-44-
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