いない。美術評論家岩村透のイギリス美術に対する知識の豊富さについてはよく知られているところであり,おそらく本格的なラスキンの日本への紹介の端緒ともいうべきものであろう。11.夏目漱石『日記三月六日水不相変DenmarkHillヲブラッキテ帰ル此所ハRuskinノ父ノ住家ナリシト云フ何処ノ辺ニャ四月七日日夏目漱石の日記からとった。漱石とラファエル前派やヴィクトリア朝の美術との関係についてはすでにいくつかのすぐれた論稿が発表されている(江藤淳,佐渡谷重信氏らの著書がある)。そして資料21にみるようにその小説のなかでラスキンが引用されるようになる。『美術新報』第1巻第1号,2号,4号『美術新報』創刊号および第2号,第4号に掲載された文章である。無署名であるが,執筆はそのラスキンに対する理解の深さなどから岩村透の手になるものと考えられる。本論稿および先にあげた「ジョン・ラスキン(一)」などからみれば,この時期,すなDenmark Hill ヨリPeckhamノGreenヲ経テ帰途SouthL. Gallery二至ルRuskin, Rossettiノ遺墨ヲ見ル面白カリシ12.無署名(岩村透か)「羅氏美術講義」13.島村抱月「渡英滞英日記Diaryfrom March 8, 1902」未公刊明治35年(1902)3月30日,4月5日,5月5日わち明治30年代の半ばにラスキンの本格的紹介が始まったと考えられる。明治34年1月1日より11月13日まで』-46-
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