思想的一面を除いたものである。これらの資料のなかで,ラスキンに対する理解の深さを伺わせるもの,あるいはラスキンの言葉の一部分を自らの論稿のなかで引用するもの,あるいはラスキンとホイッスラー間の名誉毀損訴訟問題にみるように,ラスキンの美術批評の姿勢に疑義をなげかけるものという具合に,さまざまなかたちでラスキンが紹介され,引用されてきたことがわかる。そこでもういちど,部分的にはそれぞれの資料の最後にコメントとして記してきたが,全体を整理してみてみたい。まずこれまで調査することができたなかで,ラスキンの名前の初出が明治10年代の後半であることは,わが国の当時の洋画,および美学的状況を考えるとき注目しておいてよい(資料1,2)。資料1においては,その引用のあり方とラスキンの思想に対する若干の曲解はあるが,いわゆる復古的雰囲気のなかで,やがて明治20年代にはいって興隆しようとする洋画および美学的状況の明治10年代の様相を示すものとして注目できる。すなわち,種海鋤夫が自らの論稿のなかでラスキンの名を出しているのは,この当時少なくとも美術に関する議論のなかでは,美術批評家(種海は「鑑賞家」としているが)ラスキンの名が理解され得るという前提に立っているものと考えられる。とすればラスキンのわが国への紹介の初めは,もう少しさかのは‘って考えることができるかもしれない。今後の資料調査によって明らかになると考える。明治20年代のラスキンの引用・紹介の実態は,資料3から資料10までで見ることができる。これらの資料を,先の明治10年代後半のラスキンの引用・紹介と比較するとき,そこにははるかにラスキンを読み込んだあとが伺える。たとえば資料5にみる森田思軒の一文にはたしかにラスキンの『近代画家論』を読んでいたことが伺えるし,資料8の島村抱月の美学的論稿では,ラスキンの美学的一面について深い関心を持っていたことがわかる。こうした明治20年代の最後に島崎藤村の抄訳「欧州山水画を論ず」があることは注目される。本資料についてはいまだ実見しえないでいるが,この藤村の手になる雲の観察日記「雲」(明治33年)や自然主義文学に,さらに明治27年に出版された志賀重昂の『日本風景論』などにラスキンの感化が見られることは,菊池裕子氏の指摘するとおりである。明治20年代の後半にラスキンのもつ自然主義的一面への関心は,のちの明治30年代後半から40年代にかけての自然主義文学・美術の興隆の先駆けと考えることが可能であろう。明治20年代後半のラスキンの自然主義的一面の引用・紹介をうけて,明治30年代に本格的なラスキンの紹介が始まることになる。その第1は明治33年(1900),まさにラ-52-
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