鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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スキン歿年に発表された岩村透の「ジョン・ラスキン(一)」(資料10)である。本資料は翌々年の同じく岩村透の手になると考えられる「羅氏美術講義」(資料12)とともに,本格的なラスキン紹介の端緒ともいうべきものである。しかし明治30年代におけるラスキンの全体像の紹介は,同時にラスキンの美術批評に対する疑問も提示することになった。その顕著な例は,ラスキン,ホイッスラー間の名誉毀損訴訟に関することで,たとえば資料15,22, 23などに見ることができる。このようなラスキンの全体像の紹介とラスキン批判がほぼ同時にあらわれることについてはすでに,ケネス・クラーク卿も指摘している。「……彼の名声の陰りは,これまで編集を企てられたなかでもっとも完璧で献身的な一つである,その優れた著作集の出版と同時に起こったと考えられるのである。その全集はラスキンの名声の墓石のように作用したとはよく言われることであるが……」と述べている(KennethClark "RUSKIN TODAY", Penguin Books, 1964)。すなわち1903年から刊行され始めた『ラスキン全集』全39巻は,ラスキンが読まれなくなっていった契機になったと言うのである。ラスキンの全体像の紹介と同時におこるラスキンに対する批判は,たしかに全世界的な傾向であったとも言える。ここに19世紀の美術批評の姿勢と,20世紀の美術批評の姿勢の違いがあるように考えられるが,このことについては今後の課題としたい。以上明治末年までの資料によってラスキンの引用・紹介の実態を見てきた。本資料は,『近代画家論』に代表されるラスキンの著作が,わが国の絵画にいかなる感化を与えたのか,またわが国の美術家あるいは文学者にその思想の面でいかなる源泉と成り得たのかを考えるその基礎的な資料として提示したものである。本研究の第2の要点は,こうした文字のうえでの受容の実態の把握を基礎として,具体的な美術作品でそれを考えようとするものである。たとえば吉田博の風景画は,たしかにイギリス風景画の伝統にならって描かれたことが推測できるが,それはラスキンが『近代画家論』はじめ多くの美術に関する著作のなかで解いてきた風景画と結び付くのかどうか,またその山岳趣味ははたしてラスキンのアルプス志向にならったものであるかどうか,これらのことを今後の研究において明らかにしていきたい。このような研究機会を与えていただいた鹿島美術財団に感謝いたします。-53 -

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