以降,ダヴィッド派は隆盛し,1798-1801年の4回のサロン展カタログにおいて一~つまりアングルが入門してからローマ賞を得るまでの間ー一—,ダヴィッドの弟子とし者の一人はダヴィッド派の画家たちを四世代に分けており,これが簡略ながら流派の歴史的記述として最初のものであろう。ジロデ,ドルーエ等の第一世代,グロ,ジェラール,イザベイ等の第二世代に続いてアングルは第三世代に入れられている。ダヴィッドの弟子たちの有能さと独自性は,1784年のコシャンの書簡が示すように,早くから認められている。ダヴィッド自身がアカデミーに対して距離を取っていたことも合わせて,ダヴィッド派はその革新性をもって注目されていたと考えられる。革命期て記載されている出品者ののべ数は全体の39%で,ルニョーの弟子の28%をかなり上回っている。ドレクリューズは,ダヴィッド派の画家たちの顕著な特質として自主的な研究熱を挙げているが,パリの国立古文書館には,ダヴィッドの弟子たち22人の連名で古代彫刻の模作制作の許可を求める嘆願書(1796-1797年頃)が残っており,彼らの積極的な研究意欲を証している。ルニョーのアトリエからも同種の嘆願がなされているが,この場合願い出ているのはルニョー自身で,その理由も師が自らの技量を示すためとなっており,この対照は興味深い。他の資料を綜合すると,ダヴィッド派が前近代的な「エ房」から近代特有の藝術家集団へと移行する萌芽を感じさせる。こうした性格が,アングルの自由で意欲的な探究を可能にしたと考えることが出来そうである。さらに,初期アングルが仕事の場としていた二つの建物,ルーヴル宮と旧カプチン会修道院について,残っているプランその他の資料(特にルーヴルについてはアトリ工を持つ藝術家の一覧表などが残る)を見ると,ダヴィッド派に限らない多くの藝術家が隣合いつつ制作に励んでいたことが分る。こうした環境も,同時代の画家たちの様々な試みをアングルに学ばせることを可能にしただろう。さて,アングル自身や同僚(例えばナヴェズ)の書簡は,彼と師ダヴィッドの不和を示唆している。しかし同時にアングルは自らの作品に関する師の評価に敏感であり,彼らの関係を等閑視することは出来ない。現にアングルはダヴィッドの構図や人物像を借用し我がものにすることができた。またバーミンガムにあるデッサンのように,ダヴィッドの弟子であることを誇らしげに記銘したアングル作品も存在する。より重要なことは,両者が理論的な立場において「自然」の理念を強調し,それに到達する-55 -
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