⑨ 雪村作品の編年について研究者:東京学芸大学教育学部第4部助教授小川知二雪村の作品の編年の作業は,作品に捺される印章の分類や組み合せを検討することにより,近年林進氏や赤沢英二氏が精力的に研究を進めてきた。これらの過程で,雪村の初期と最晩年の作品については,大体の編年が可能になったかと思われる。しかしこれらを挟む時期の,個々の作品については,なお具体的な検討が必要と考えられる。雪村作品の編年については,実は雪村の生年を何時に推定するかが,大きな問題になっている。すでに戦前福井利吉郎氏は,三春の雪村庵扁額に記される由緒書と『素川本図絵宝鑑』に収録された落款を基に逆算し,永正元年(1504)生誕説を唱えられた。しかしこれについては,近年赤沢英二氏が別の試算によって,明応元年(1492)説を打ち出し,生年を十二年遡らせている。赤沢氏の説は,雪村が天文11年(1542)に著した『説門弟資云』が,極めて完成された高度な内容の画論にもかかわらず,福井氏の説では僅か39歳に著述されたことになることへの疑問を解くもので,画期的な説であった。赤沢氏の説では,これが51歳のときの著作となり,妥当な時期と思われるからである。しかし本研究では,福井説も赤沢説も前提にしない。福井説が『説門弟資云』の著述年代でやや無理があるのは事実だが,赤沢説でも全てが割り切れるわけではないからである。ただここでは,当然のことながら,雪村のポイントになる時期は設定しなければならない。そしてこれら各々の時期の中での作品の編年を行う過程で,自ずと両者の説への問題提起も成されると思われる。雪村作品の編年のポイントは,大きく三つの時期に分けられよう。一つは,佐竹氏の一族として常州部垂に生れてからの常陸時代で,この下限は天文15年(1546)奥州黒川(会津)の芦名盛氏に「画軸巻舒法」を授けるまでとなる。作品としては常陸太田正宗寺での滝見観音図から始まり,かつて佐竹氏が所蔵していた風濤図に至るまでとなる。第二の時期は,小田原・鎌倉時代と考えられる。雪村は,この前に一度会津に赴いたと思われるが,滞在期間は短く,直ちに小田原・鎌倉へと旅立ったのであろう。この時期は,天文19年(1550)の以天宗清像(早雲寺開山以天宗清賛),天文24年(1555)の夙々烏図(円覚寺景初周随賛)などが基準作品となる。第三の時期は再び-58-
元のページ ../index.html#65