鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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鳥図屏風(大和文華館,フリーア美術館ともi.j)だが,いわゆる小品的な作品にもかなり多い。画題はさまざまで,表現も多様で自由になっている。数が多いのは,鎌倉から会津へとまたがって長期間にわたることを示し,表現が多様なのは,一部の作品を除いては,不特定多数のための作品だからかもしれない。この三印の内h印は晩年まで残るが,iとj印は途中で使用されなくなる。なおこの三印の何れかに,K 「浮」(朱文方印)が加わることがある。呂洞賓図(個人,h• k),寒山拾得図ー2幅ー(h•j•k),竹雀図(h• i • k)など数少ないが,雄勁な表現,機知に富んだ作品になっている。特定の時代の(おそらく鎌倉に居た時代),特定の人のための作品と思われる。く会津・三春時代の作品>雪村は永禄6年(1563)に玉澗小軸(中村家旧蔵),また牧硲八景中軸(模写本),また翌7年に玉澗大軸(集古十種本)を進上した。ここに捺される印はh印とともに,l「雪村」(朱文由印),m「周継」(朱文長壷印)だが,福井説の生年によればこのとき雪村は60・61歳となる。しかしこの三つの印は,「八十二歳図之」の灌湘八景図屏風と同印で,20年以上の開きがありながら,m印に至っては輪郭の欠損部分も同じである。これはどう解釈したらよいのだろうか。しかし雪村の生年を十二年遡らせた赤沢説では,永禄6• 7年は72• 73歳となり,この間の開きはほぼ10年になる。これの解釈には,赤沢説の時間スケールが有利と思われる。現在も玉澗風の撥墨の灌湘八景図の断簡が幾つか見られるが,これにはh• l • m印の組み合わせが多い。偶然だろうが,この印の組み合わせの作品は分断される運命にあるらしい。先の82歳の屏風は向って左隻だけが残り,秋元子爵家旧蔵の山水図屏風は,三つに分けられ各所に蔵されている。当初からもとの姿と思われる作品には孔子観欽器図がある。最晩年から逆に遡る形になるが,もう一つの基準作として「七十一」歳の竹林七賢図屏風がある。1印とn「鶴船」(白文方印)を捺し,自画像はあたかもこれらを集成するように,h• l • m • nの四つの印を使用している。竹林七賢図屏風と同印の組み合わせ,また款記にも同じく「鶴船老翁」を使う作品に薩果図があり,もと会津の恵日寺の所蔵であった。この「鶴船」はやはり会津・三春に入ってからの使用と確定でぎそうだ。「鶴船」の款記を伴いn印を捺すが,他に0「周継」(朱文長壷印)とP「雪村」(朱文長頸由部)を使用している作品に山水図屏風(シカゴ美術館)がある。0印の輪郭が欠損してm印の形になったようにも思えるが,私はこれは基本的に違う印と-61-

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