鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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⑩ 宋代着色山水画に関する研究一~「小景」画の史的位置研究者:東京大学文学部助手板倉聖哲両宋交替期における着色山水画の復興において,王読・趙令穣・趙伯駒ら宗室画家の果たした役割は大きかったと南宋・趙希鵠は指摘している(趙希鵠『洞天清禄集』)。その中で,趙令穣は蘇拭(1036■1101)・米帝(1051■1110)らとほぼ同時代に活躍し,その画には北宋末の画壇に顕著になる新傾向が重層していたと考えられる。ここではその趙令穣の画に注目してみたい。趙令穣(字は大年,?〜1061■1100■ ?)は北宋・太祖五世の孫にあたり,哲宗朝(1086■1100)の頃を中心に活躍した北宋宗室の「小景」画家である。王銑(?■1069■1099■ ?)や若年時の徽宗(1082■1135)と接し(禁條『鉄囲山叢談』巻ー),黄庭堅(1045~1105)•米苦・董迪らと交流があり(黄庭堅『豫章先生文集』巻二七・米苦『画史』・董迪『広川画政』巻六など),自らも法書名画を多く収集した(『宣和画譜』巻二0)。『画史』には彼が所蔵した書画の一部が記載されているが,こうした交友のなかで,王読の宝絵堂,米苦の宝晋齋などにも赴き,多くの画に接し得たものと推測される。同じ宗室の趙令時(1061■1134)は元符元年(1098)襄陽に官するまでに数十函に及ぶ名画を収集していたが(部椿『画継』巻九),おそらく趙令穣はこれらの画も見知っていたと考えられる(李塵『徳隅齋画品』)。彼は蘇拭・黄庭堅ら同時代の文人の書画から影響を受ける一方,接し得た多くの画のうち,特に王維・李思訓・畢宏・章櫃らの唐画に私淑したという。又,趙令穣は唐時代を意識した着色画のみならず,蘇拭によって大きく取り上げられる墨竹画も手懸け(『画継』巻二など),その小景画は当時再評価されつつあった江南画の趣きを持っていた(『画史』など)という。趙令穣の史的位置を最もよく示すと考えられる伝趙令穣「秋塘図」(大和文華館蔵)を中心に,その伝称作品を見ていくことにしよう。先ず構図であるが,枝垂柳という一本の樹が配置された,より近景にある画面左部分と,霧のかかる樹叢があり,より遠くに位置する右部分が緩い対比を意識しつつ描かれている(小禎画か長巻の一部かが問題になること自体この画の画面枠に対する意識が希薄であることを意味している)。趙令穣風とされる伝恵崇「沙汀煙樹図」(遼寧省博物館蔵)や伝趙令穣「橙黄橘緑図」(台北故宮博物院蔵)も共に「秋塘図」と同じく江を挟んだ汀渚を描いており,その汀渚ははっきりと前景・後景に分かれている。又,董其昌が家蔵した伝趙令穣「湖荘-63 -

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