鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
76/279

重なることなく,中空に薄板のみで側壁を象ることになるが,中空でその様な素地加工をするということは不可能であり,恐らく雄型なり雌型なりに添わせて成形し,素地固めをした後型からはずすと言う当時盛んに行われていた漆皮箱や乾漆像を成形するエ法によったのではないかと思考している(いずれもX線透過写真観察による)。薄板を数多く巻いて器胎を構成していると言う点では,漆胡瓶に似るものである。漆胡瓶の構造については既に前記「正倉院の漆エ」や「國華」第一ー一九号で詳しく述べたのでここでは煩を避け省略致したい。院外のものとしては,まず①柳枝成形漆器20数点・韓国アナップチ(雁鴨池遺跡出土)が挙げられ,これについては1978年(昭53)「雁鴨池発掘調査報告書」として韓国文化財管理局・文化公報部から遺構と遺物についての報告書が刊行され,その「巻胎」技法に付いての解説は昭和62年東京で開催された第1回漆工芸国際会議の席上故李宗碩氏によってなされた。巻胎漆器の数は正確には公表されていなかった。技法的な点についていささか見解の相違はあったが,正倉院のものと軌をーにするものであると言う点では意見が一致していた。次に②銀平脱合子1点・西独シュツッツガルト民族学博物館収蔵のものについては,奈良の漆芸家北村昭斉氏が前記博物館より修理の依頼をうけ,昭和61年修理を終えられた。修理前の状態を実見させて貰う機会があった。これは正倉院の銀平脱合子四合と品質・形状・文様に至るまでその作風が酷似するものであり,あるいは同じエ人が,または同じ工房で成されたのではないかとさえ思えるほどのものであった。ただし,正倉院の合子の径が11.5糎あるのにたいし本件は10糎とやや小振りであることと,前者が内外とも黒漆で仕上げられているのに対して,本件の内面は朱塗りであることなど多少異なるところもある。ただ残念ながら大破してはいてもその破損部からは側板のエ作が径の異なるリングを重ねていく曲げ輪式であるのかコイル巻式であるのか,或る程度長い材料を包帯を巻くように巻き上げていく肉眼でもX線透過写真でも確かめることはできなかった。③漆器断片1個体分(滋賀県松原内湖遺跡出土)は,曲げ輪部分の外周と中間部の一部は欠失しているものの,現存部の最大直径が17.5糎(中央板径7.7糎),曲げ輪は厚さ約1耗,幅3.3耗であり,これは元滋賀県埋文センターの中川正人氏(現安土城考古博物館)の綿密な調査により,これら薄板がコイル巻に24周巻かれていることが確かめられた。(昭和63年3月・滋賀考古学論叢第4集)この器の形状はまだ明らかにさ-69-

元のページ  ../index.html#76

このブックを見る