また漆器の素地としては劃期的な大発明であったといって過言ではない。ところがわが国には完成された品物のみが伝えられ,その技術は伝わらなかったと思考している。何故ならば,それらがわが国に伝えられたときは,完全無欠な完好品としてであり,塗りの下に隠された胎を見ることがなかったのである。当時のわが国のエ人達にとって外見上は当時盛んに行われていた挽物の形態を呈していたのでさして気に留められなかったのではないだろうか。その後も壊れなかったので実際に素地が何であるのか知らないまま現代にまで至ったのではないだろうかと筆者は考えている。恐らく普通の挽物であろう程度に認識されていたのではないだろうか。現に,つい最近まで合子類は挽物と理解されていたり,外見上少し異なる漆胡瓶は藍胎として扱われてきたのである。したがって現在もわが国にはその伝統はない。ところが一方,こちらも常に中国の影響を受けつづけてきたに違いない。東南アジア,とくにタイ国での漆器があり,そこでいまも盛んに行われている。漆器素地の一つが,古代の巻胎漆器の伝統を継承している唯一のものだと言えば言い過きだろうか。そしてこのようにみてくると素晴らしい漆器素地「巻胎」のルーツは注I,注3の①〜⑤の例もあり,やはり7'8世紀の中国辺りに求めることができるのではないだろうかということになる。ただ問題が一つ残される。正倉院の巻胎の巻き材が何であるのかまだ判然としていないが,①の韓国アナップチ出土のものは柳材だと言われ,③の滋賀県松原内湖遺跡出土漆器断片は桧材だと言われ,④の奈良平城宮跡出土特殊漆器は梱(カヤ)材だと言われているようにすべて針葉樹材であると報告されており,タイ国のチェンマイで行われているような竹材でないところが大いに問題となる点であり,当時そのように薄い,また均ーな材がどの様にして加工されたのかそのエ具や工法が興味の対称ともなって,今後は素地の材質や工具について追求してゆかねばならないと思考している。〔注1〕『正倉院の漆エ』昭和50年3月・正倉院事務所編・平凡社発行北倉25銀平脱合子四合,同42鏡箱ー合,同43漆胡瓶ーロ,同154銀平脱合子ー合,同157漆冠笥ー合,中倉140漆合子二合,南倉70銀平脱箱ー合〔注2〕「滋賀考古学論叢4』「松原内湖遺跡出土巻股漆器断片の技法について」中川正人昭和63年3月『塁孟喜塁先生考古学論集』「漆器の巻胎構造について一最近の出土例から一」高橋隆博昭和63年9月その他〔注3〕①柳枝成形漆器20数点・韓国アナップチ(雁鴨池遺跡出土)②銀平脱合子-72 -
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