鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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① 俵屋宗達の造形思想—法橋叙位後の作品を中心に一一研究者:石川県立美術館学芸員村瀬博春本研究の目的は,法橋に叙せられて以後,工房的ポリシーを離れて自在に筆をふるった俵屋宗達の造形思想の輪郭を描き,それを日本文化の展開のなかに位置付けることである。最初に,宗達がどのような思想的環境にあったかを概観してみたい。1.法華宗徒:俵屋という絵屋を主宰した上層町衆と考えられることや,本阿弥光悦との共同及び伝世している系図を根拠として。みがあったということに留まらず,後水尾院及びそのサークルを顧客層としていたことから,諸芸道や,当時復興しつつあった古典文化一般に関する高い見識を持っていたと考えられる。また法橋叙位前後から宗達の仕事に大きな影響を与え,かつ自身法華から臨済禅へ改宗した烏丸光広の存在から推測して。それでは,こうした要素がどのような契機により「造形思想」を形成していったのだろうか。法華思想は,日本における絵画の展開に強いインパクトを与えている。その最も根源的なものは,平安後期の仏画の著しい発展をもたらした「作善」の思想である。つまり,善美を尽くし,技を追求した造形は功徳となるのである。この思想は,近世において再びクローズ・アップされる。狩野永徳や長谷川等伯が法華宗徒であったことは周知のとおりであるが,彼等にとっては,自已の技のみが侍みであり,作画という行為は,「事の一念三千」を旨とする法華宗の職業観に照らして,自已の信仰を修証する道だったのである。こうした,技の追求が宗教的意義を持つという思想は,必然的に,禅宗の影響のもとで発達した芸道への志向性を生む(改めて述べるまでもないが,『南方録」には“茶の湯は第一仏法をもって修行得道する事也”と記されている)。平成4年度「美術に関する調査研究の助成」2.数奇者:井関妙持宛の千少庵の書状を根拠として。なお宗達は,単に茶の湯の嗜3.臨済禅への傾倒:2.(茶禅一味)及び,伝世する禅僧著賛の水墨画を根拠として。-1-

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