それゆえ,数奇という確固とした思想体系を持った美学が,近世以降の法華宗徒の造形思想に,明確な指針を与えたという状況が考えられるのである。利休に対して批判的であった光悦が,茶陶の分野で独創的な世界を具現することができたのも,やはり法華思想と数奇の美学を,独自の次元で調和させたからに他ならない。そこで宗達も同様に,数奇の美学に立脚した独自の造形思想を展開させたと考えられるのである。宗達の茶の湯がどのようなものであったかは,少庵を招いたという事実から想像するより他はない。しかし利休没後の千家の茶は,光悦が批判したような豪奢な側面を排した,極めて精神主義的なものであり,宗達もその域を逸脱するものではなかった筈である。その根幹にあるのが臨済禅の思想であり,ここで宗達と臨済禅との関わりが焦点となる。宗達の思想的環境には臨済禅が大きな位置を占めていたことは,先述の通りであるが,更に,近世の京都における法華宗と禅宗は,共に「対一向宗」という立場で緊密な関係にあったという事実と,宗達の重要な顧客層であった後水尾院及びそのサークルは,愚堂や沢庵一糸ら臨済宗の禅僧を招いて熱心に禅を学んでいたという事実が付け加えられる。また,寛永時代を一つのピークとして,幕府の政策によって京都の古刹が次々と復興され,仏教文化ルネサンスと呼べる状況が現出していたという事実も看過されてはならない。以上に述べたことは,謂わば教養としての禅の次元に関わるものであるが,所謂「風神雷神図」のような作品の存在は,宗達の禅が信仰の次元にまで深められていたことを昭示するものである。それゆえ,古今伝授の際に“若し仏心に通ぜずんば,歌道に達すること,また難し”と細川幽斎に垂示されて改宗した烏丸光広が,同様に,宗達に対しても造形を極める上での禅の信仰の重要性を説いたという状況が考えられるのである。法橋叙位後の宗達が用いた印章である「対青」,「対青軒」が,小松茂美氏の指摘の通り光広が自身の一字名に因んで撰文したと考えられることも併せて,宗達と光広が知的地平を完全に共有していたことは疑い得ない。以上のことから,宗達の造形思想は,数奇の美学と,臨済禅の信仰という同根の思想圏の内に定立することができるとの結論が得られた。-2-
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