鹿島美術研究 年報第10号別冊(1993)
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う人物と豊饒の証としての小鳥という解釈がある。鹿,羊などの吉祥の象徴的な表現も,次第に現実世界のものではない瑞獣や鋪首,神仙,仏像あるいは,辟邪を表現するものが貼りつけられたり,堆塑されたりするようになっていく。神亭壷の装飾は単に壷を飾るという意図ではなく,江蘇省や浙江省,さらには福建省あたりの文化や習俗・信仰を写し取ったもので,短期間の様式としては,きわめて興味深いものがある。この壷が魂瓶として,葬儀に使われ,現実世界と冥界を分ける象徴的なものとして,また子孫の繁栄を祈願する役割をも担っていたわけである。神仙,瑞獣,仏像など細かな立体像を貼りつけることによってこの壷を外部の世界から守り,壷だけで世界が自立して存在しうるようにされている。墓室内において魂が出入りし,安住する場所としての神亭壷がすたれていったのは,仏教思想が広まっていくと,宗教的には,死者の魂は個々の現実の世界に留まることはなく,その魂の安住の神亭壷が必要ではなくなったからであろうか。このほか古越磁には蛙形の水滴や壷,羊形や獅子形の容器,熊形の燭台,あるいは,天鶏壷と呼ばれている鶏の頭がついた壷などがある。ここでは古越磁を代表するものとしてもうひとつ天鶏壷をとりあげてみる。この壷には二つの形態があり,一つは双耳盤口壷に鶏の頭と尾がついたもので,これは鶏頭壷とも呼ばれる。もう一つは尾の代わりに盤口まで把手のついたものである。これを天鶏壷と呼ぶ。前者の鶏頭壷では,鶏の頭の代わりに鷹の頭や羊の頭がついたものもある。後者の天鶏壷には把手が龍となり,盤口部分に龍頭をつけている形態のものや,鶏頭が二つ並んだ形式のものもある。黒釉のもの,あるいは鉄斑文のあるものなどもある。双耳盤口壷に鶏頭のついた鶏頭壷の最も早い例は揚州晋浦西晋墓から出土している。盤口ではなく双耳壷に鶏頭のついた形式は鎮江高淳化肥廠の呉墓から出土している。そしてこの祖形は斉家文化に既にみられる。また,首の長い把手のついた天鶏壷の形式は東晋時代から始まり,南朝においては,その時代の流行にならった蓮弁文の施された天鶏壷が焼成されている。さらに隋・唐に至ってもその形式が引き続き継承されていく。東晋時代の天鶏壷は丸く,胴の張ったものであり,鶏頭は単なる飾りではなくて,注口としての穴が通じているものも見られる。黒釉の天鶏壷も焼成されているが,その陶片は浙江省徳清窯や上董窯,余杭窯で採集されている。天鶏壷の発想は六朝時代に実用的な器と動物形を組み合わせたもののひとつとして発展していった例であり,鶏を注ぎ口につけるのは辟邪としての-89 -

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