鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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いて,対象を見ずに創作する事が,俳句でも絵でも陳腐になり,何の新鮮味も生じてこない。ここで不折は,日本画よりも少なくとも洋画は対象を見て描いている,見ることによって新しい発見があるという事を示唆したのである。次第に子規は洋画の優れている点を(より写実的という意味で)認めるようになる。不折は子規に絵画の見方や写生という事をいろいろと教えた。「墨汁一滴」の中には不折論をかなりの量を割いて載せている。例えば27年の美術協会展に参考出品されていた雪舟の屏風は一見したところ,つまらぬ絵に見えた,ところが同道した不折は暫く見ていたが"これ程の大作雪舟ならばこそ為し得たれ到底凡人の及ぶ所に非ずといへり。斯くて不折君は余に向ひて詳に比絵の結構布置を説きこれだけの絵に統一ありて少しも抜目無き処さすがに日本一の腕前なりとて説明詳細なりき。余比時始めて結構布置という事に就きで悟る所あり,…”結構布置とは構図のことを言っているのだろう。この構図が彼の俳句にも微妙な影響を与えていったようである。子規は蕪村の俳句を非常に高く評価し(「俳人蕪村」),蕪村の句を’'絵画的”と形容しているが,蕪村を絵画的と評する根底の一つには,句から浮かんで来る情景が実に鮮明で,詠まれている対象がくっきりと際立っているからであろう。一定の枠の中に事物が的確に納まっているのである。絵画の主要素である構図を不折から学ぶ事によってこのような評が生じたのであろう。しかも子規は蕪村の句は'’客観的美”だという,客観すなわち写生への道程である。また同じく「墨汁一滴」の中に,子規が絵の写生をするのに,病林故,身のまわりにある花とか小さい器位しか描けない,ある時,不折の話に'’一つの草や二つ三つの花などを描いて絵にするには実物より大きい位に描かなくては引き立たぬ,という事を聞いて嬉しくてたまらなかった。俳句を作る者は殊に味わうべき教である。”この文は5月1日に書かれたものであるが,その三日まえの4月28日に,有名な’'瓶にさす藤の花ぶさみじかければた>みの上にとゞかざりけり”に始まる連作十首が作られている。これらの歌は不折の理論の実践ではなかったか。実際よりも大きく描くということは,対象をより綿密に克明に見詰めることを意味する。それによって藤が大きな存在となり作者の歌の世界が広がり,鑑賞者に感動が大きく伝わって来る,そして印象がより鮮やかになっていく。何げない写生の方法にふれた言葉だったのかもしれないが,子規には目から鱗が落ちるような衝撃だったのである。子規が不折に出会って間もなく’'日本”に「不忍十景に題す」として,子規の句と-2-

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