鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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ろう。なお,上の引用文中に見える「鳥羽御堂」は,『長秋記』では勝光明院を指す称号として用いられることが多いが,この場合は康和3年(1101)に白河法皇によって鳥羽離宮の南殿に建立された阿弥陀堂で,当時の人々から同じく烏羽御堂と呼ばれていた証金磨院を指したものであろう。したがって,証金剛院の内陣柱にも勝光明院の手本となるような鏡仏像が飾られていた可能性が高いことになる(証金剛院の柱絵の主題については未詳)。このはか,法金剛院東御堂(承安元年=1171)のように,本尊周丈六阿弥陀如来像の背後にある来迎壁脇の二本の柱に,阿弥陀如来の種子などを書いた鏡を飾った例もある(注6)。右に見たように,十二世紀において内陣柱に鏡像風尊像や種子鏡像を飾ることはしばしば行われたことが伺え,このような柱絵が金色堂巻柱の菩薩像の模範となったことが推察できる。勝光明院の内陣柱の荘厳についてまとめれば,主題は両界曼荼羅であり,各像は鏡像風の尊像形式であった。勝光明院の造営は金色堂の建立から僅か十年しか隔たっておらず,同院の柱絵の存在は,同じく鏡像風の菩薩像を飾っている金色堂巻柱の主題を考察する際の貴重な資料となろう。「東宝記」によれば,永仁年間に再建された東寺五重塔の初層には金剛界五仏のうち大日如来を除いた四葬と各脇侍菩薩の計十二体が安置されていた。さらに,同書は四天柱の荘厳の意匠について次のように記している。塔婆柱綸永仁新造塔婆佛壇中心柱不園佛像。四隅柱内西二本金剛界四佛,十六大菩薩,四描尊像園之。東二本胎蔵界四佛,四菩薩及諸院上首等園之。又佛壇四隅柱最下一重,十二天井四種毘那夜迦天各座像也圃逸之。都合十六天也,雨界諸尊皆月輪内蓮花座上圏之。諸天像通月輪内荷葉座上圃之。此圃蓋願行房以感典主令書之。亦加自筆云々。是為根本綸様賦不知子細。今拝見聯有不審。乾柱四描尊座位錯乱欺。坤柱光井持物可日輪,然書月輪誤也。艮柱梵天像異常途説有疑芙。心柱には仏像は描かれず,四天柱のうち西側二本には金剛界曼荼羅の中から二十四尊を選んで描き,東側の二本には胎蔵界曼荼羅の諸像が描かれていた。両界曼荼羅の諸尊は月輪内の蓮華座上に,諸天は月輪内の荷葉座に坐していた。この例は,月輪仏の描かれた柱絵の主題が両界曼荼羅であったことを示すものとして注目される。(3) 東寺五重塔(永仁再建塔,永仁年間=1293■99)-92 -

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