鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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るものと考えられる(注3)。あるいは鎌倉後期制作の聖衆来迎寺本に先行する九相図が存在し,『往生要集』以上にその絵画の図様の伝統継承が作画の規制力として働いて本図の制作はなされたものかと推察される(注4)。いずれにせよ,本図のプレテクストは『往生要集』の記述に一概に帰し得るものではないことは明らかである。このように考えるならば,聖衆来迎寺本「人道不浄相図」の読みは,プレテクストとしての『往生要集』の厭離積土/欣求浄土という文脈に拘束されてのみなされるのではなくなることになる。試みに『摩詞止観』等の経典では九相観を男性が女性に対していだ<淫心を戒める目的で説いていることに注目してみよう。死後の変わり果てた姿を想うことにより,男性は女性への愛欲を押さえることが九相観の眼目である。このことに注意を促すならば,かえって『往生要集』が屍体の変化を説いたのちに「愛する所の男女も皆またかくの如し」と語ったその言葉が輝きを増してくる(注5)。聖衆来迎寺本「人道不浄相図」あるいはそれ以外の現存する全ての九相図がいずれも男性ではなく女性の屍体を,一つの例外なく描いていることは,それらが異性への欲望にまみれることを忌避しようとした男性のまなさ‘‘しに開かれた対象としての絵画であったことを示しているものと解釈されよう(注6)。さて,本来なら愛すべきはずの異性の変わり果てた姿を凝視する男性の心理とはいかなるものなのであろうか,言い換えるならば,本図を制作しその画面をみつめた観者の心にはいかなるイメージがかつて形成されていたのか,ここでは杜会史的なコンテクストを参照して,この問題を探ってみることにしたい。過去の人々にとって,屍体とはまず第一義的に男女を問わず嫌悪の対象であった。このことは「稿れ」意識を前提とする。我国古代中世の人々にとって屍体に触れたり,それを目にしたりすることは共同幻想としての「穏れ」に抵触した。これについて具体例を挙げ出せばきりがないが,たとえば仁和四年(888)豊楽院の死檬により神今食が停止となったという『日本紀略』の記事と,承平八年(938)右大臣夫人が死んで,その械れが内裏に及んだため賀茂祭が停止になったという『勘仲記』の記事とを挙げておくことにしよう(注7)。『今昔物語』所収の一説話「百済川成飛騨工挑語」もまた死檬について語る興味深いエピソードである(注8)。次のような話だ。「かつて飛騨工にしてやられた百済川成は,その仕返しをしようと工を自宅へ呼んだ。仕返しを恐れたエがためらいつつも彼の屋敷に出かけ,その廊下の戸を開けたところ,そこにあったのは思いもよらず,黒-98 -

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