鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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く変色し異臭を放つ腐乱屍体。エは驚き怯えて,家から飛び出した」とある。この一節に見られる飛騨工の「声を放ちておどろき去き返る」という行動から,死稿に対して強迫観念ともいえるほどの感情を有していた古代中世の人々が,我々現代人以上に,屍体を前にして特に強い恐れと嫌悪感を抱いていたことがわかる。本説話末尾においてこの屍体が実は本物ではなく,百済川成が障子に描いたものであったことが明らかにされるのだが,たとえ描かれた屍体であったとしても,それが死臭を感じさせるほどに強烈なインパクトを視覚的に与えるものであったことが,この話から理解されるのである。それでは,こうした心理的状況にもかかわらず,なぜ聖衆来迎寺本「人道不浄相図」のようなおぞましい屍体の絵が実際に制作され,鑑賞に供されてきたのであろうか。屍体は「穣れ」を生むものとして,人々に疎まれていた。しかし,それにもかかわらずというべきか,過去においては現代以上に屍体を目にする機会は人々にとってずっと多かったと想像される。『方丈記』の次の有名な一節を想起してみよう(注9)。「築地のつら,道のほとりに,飢え死ぬるもののたぐい,数を不知。取り捨つるわざも知らねば,くさき香世界にみち満ちて,変わりゆくかたちありさま,目も常てられぬこと多かり。」屍体は「稿れ」の対象として強い恐怖心を生むものである一方で,それは過去においては日常生活を営む中で否が応でも目にせぢるを得ないものでもあったのである。また,ここでも死臭が意識の俎上に乗せられていることは注目される。屍体は視覚的にも嗅覚的にも忌み嫌われるものであったのだが,人々は日常それを己れの目鼻を通じて実際に感じとる機会を多く有していたことがわかる。この嫌悪感を抱かせる対象に相違ない屍体を,むしろ意図的に見に行き,その異臭を嗅いだことを記す説話が存在する。『閑居友』所収の「あやしの僧の宮仕へのひまに不浄観を凝らす事」がそれである(注10)。「昔,比叡山に名もない卑しい僧がいた。彼は夕暮れ時になるといつもその姿が見えなくなった。主人はこの僧が女の所にでも通っているのかと疑い,ある時その後をつけてみると,意外なことに僧は蓮台野の墓珪に行き,屍体を前にして涙を流していた」という。つまり,僧は不浄観を凝らして,翔世を厭う気持ちを日々強めていた優れた聖職者であったわけである。この説話は『大昆婆沙論』巻四0に説かれる「行者は先ず塚間に往きて死屍の青癒等の相を観察し,嗜く相を取り已りて退きて一処に座し,重ねて彼の相を観ず。若し心を乱して明了な-99 -

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