鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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い寝のことは語られず,むしろ定基は悲嘆のために妻を葬ることさえできずに,屍体を何日も家においておいたといわれている。死穏が一般通念であった当時にあって,これは極めて異例なこととして読者に受けとめられたことであろう。さて,定基はその数日間,生きるが如く妻を抱き暮らしていたのだが,ある日その口を吸おうとして,妻の口から異臭が漂ってくるのを感じたのであった。このことから疎む気持ちが心に生まれ,泣く泣く妻を埋葬し,その後忽然と出家をなしたと伝えられる。屍体へのロづけという異常な行為が,この説話のセンセーショナルなポイントであることは言うまでもない。ここから読み取られるべきことは,死すらも越えて愛を貫こうとした男の深い心情である。しかし,我国中世において支配的であった仏教の理念からすれば,それは愛欲という妄執に捕らわれた男の醜い行為と位置づけられる。この説話のポイントは,せつない至上の愛情物語の形式をとりながら,むしろ異性への執着心の異常さとその克服を強調する点にあると解して間違いない。上記の説話群からは,いずれも淫靡なエロティシズムが漂ってくるように思われる。叢初の屍体を喰らう犬はカニバリズムの変形であり,二番目の妻の遺骸との添い寝は屍姦をイメージさせる,そして最後の屍体への口づけは端的にエロティックな行為であるからだ。そして,以上のこうした説話群から導き出されるのは,さらにいうならば「裏返しのエロティシズム」とでも呼ぶべき心性ではないだろうか。異性への強い執着心が一旦は死を越えて永遠の愛情という形式を男性に選択させておきながら,しかし厳然たる生物学的な死を前にして,むしろこの執着心ゆえにかえって異性への強い嫌悪感ひるがえって現実すべての事象に対して厭う気持ちが引き出されることになり,結果として主人公の男性の出家という行為へと結びつくー一これがこうした説話群に共通する構造であり,いずれのモチーフでもある。欲望としての.................................... 性へのテンションの高さがそのままに,悟りの道への推進力/動機にと変質され得ることを,こうしたエピソードは物語っていよう。現代の心理学的分析がいみじくも暴き出してきたように,ェロスとタナトスとは表裏一体の関係にあることを,我々は上記の我国中世の説話群から伺い知ることができるわけである。このように位置づけるならば,聖衆来迎寺本「人道不浄相図」とは(あまり好ましくない醤えであろうかとも思うが)一種の男性本位のポルノグラフィーと解釈され得るものと言えよう。それはちょうど,ストリップが生身の女性の一枚一枚済衣を脱ぐ動作によって男性-101-...........

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