鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
11/475

つ。不折の挿絵が掲載されている。不折のそれは多分,ペン画であろうとおもわれるが,俳句にお決まりの俳画とは全然趣の異なるスケッチである。子規の句と不折の挿絵は一面では不協和音を奏でているようにも見える,というのも子規の俳句のもつ軽妙さとリリシズムが,不折の筆にかかると生真面目になり,堅い感じのするのが否めない,ともかくも不忍池の周辺が克明な写生で描かれている,おそらく子規も満足だったのであろう。写生についての理論はこのように,不折から非常に多くのことを学んでいる。だが不折の実作からはあまり得るものはなかったのでは。「墨汁一滴」の中で子規は不折の作品評を"そは君の嗜好が余りに大,壮などという方に傾き過ぎて小にして精,軽にして新などいう方の絵を軽蔑し過ぎはせずやという事なり。……油画にてはなけれど小き書画帖に大きなる景色を画いて独り得々たるが如きも余は久しく前より心にこれを厭わしく思へり。”またこれ以前に子規は"土瓶の写生のが出来ん人に,大きな歴史画が画けるとは到底思えない”(「写生,写実」明治31年)この苦言は不折に対してではなくて,当時の日本画家に向けられたものなのだが,些細な物の写生を疎かにしがちな不折に対しても同様の不満がどこかにあったのだろでは子規のいう"土瓶の写生の出来る”画家とは誰を指していたのか。2.浅井忠と子規子規が浅井と出会ったのは何時のことか不明である,明治27年に浅井が不折を紹介しているところから,それ以前であろう。また子規も浅井も当時,上根岸の住人で,隣人に近い間柄であった。浅井は子規よりおよそ10歳位年長,子規は浅井を常に先生として遇し,敬意を表していた。子規が先生と呼ぶ人は少ない,この先生という呼称の中に子規の浅井に対する気持ちが十二分に窺われるのである。浅井は古武士の風格を持った画家で,清廉潔白の士であった(この侍魂というのが子規にはたまらないものであったらしい。)。浅井はフォンタネージの忠実な弟子であった。フォンタネージは基本的にはアカデミックな画風の持主であったが,フランス・バルビゾン派の影響を受け,抒情的な自然描写を根底に置いた指導をしていた。浅井の体質の中にフォンタネージの画風とし-3-

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る