鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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の情欲を煽り立てるのと同様に,屍体が肉片を剥ぎ取るその過程で男性の情欲を信仰に昇華させていくプロセスを示唆している。絵は屍体のストリップの異時同図法的ヌードグラビアとでも称すべき性格を有しているのだ。男性は「穏れ」意識を捨象して,本能的にその画面にまなざしを向けてしまわざるを得ない。この異性の肉体への欲望をきっかけとして,避けることのできぬ死を前にしての出家遁憔という逃走を勧めようとする宗教的プロパガンダ戦略のために,その性的本能を利用し機能させた点に,仏教説話画としての本図の神髄が蔵されていると解されるのではあるまいか。『吾妻鏡』建暦二年(1212)十一月八日条は将軍源実朝の御所にて行われた絵合せの儀について記している。この場において大江広元が提出した「小野小町一期盛衰事」図は徳江元正氏によれば「九相詩絵巻」であったものと想定されている(注16)。もしそうであるなら,これは聖衆来迎寺本「人道不浄相図」に先立つ女性の屍体を描いた絵についての証言ということになる。若き将軍実朝が,この絵巻にひときわ強い関心を持って惹かれたであろうことは想像に難くない。また貞応二年(1223)供養の醍醐寺球魔堂にぱ快慶.湛慶の手になる閻魔群像が安置されていたというが,特にその壁画として「九相図」が描かれていたことが『醍醐寺新要録』に記されている(注17)。こうした文献にて知られる聖衆来迎寺本に先行する作例に対して,比叡山寂光院伝来「九相詩絵巻Jは本図にやや遅れる現存の女性屍体図というべき絵巻物として注目される(注18)。さらに夢窓疎石は十四歳の時,自ら「九相図」を描いて壁に掛け,これに対観して無常を感じたといわれる(注19)が,十四歳という年齢が男性の第二次成長期に当たることを想うとき,このエピソードはことさら興味深い。そして現存遺品では大永七年(1527)銘の大念仏時所蔵「九相詩絵巻」の存在(注20),近世に入ってからは同種の作品が掛幅/絵巻の形式を問わず日本各地に多数伝わっていること(注21)などを考慮するなら,我国においては,死穂を厭いながらも,屍体の絵を享受する伝統が長く広範囲で続いていたことを推測することができる。こうした伝統が続いたのは,それが人間一般とりわけ男性の本性に根ざしたものであったからに他ならないであろう。勿論,他の絵画作品を参照するまでもない。聖衆来迎寺本自体が,その旧軸木銘によれば正和二年(1313)以来天和三年(1683)に至るまで十数度の修理が施されてきた歴史を有すること(注22),また本図の観覧が中憔から近世さらには現代に至るまでなされ続けてきた事実(注23)を考えるならば,-102-

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