鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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* * 注(1) 聖衆来迎寺本に関する優れた古典的研究として大串純夫「十界図考」(『美術研究』(3) 周知のように『往生要集』は種々の経典を巧みに引用して編まれた著作である。(4) 聖衆来迎寺本に先行する九相図の存在の可能性については後述する。本図が一時期の皮相的な関心事に過ぎぬ『往生要集』の逐語訳的図解の所産では決してあり得ず,むしろ人間精神の本質的傾向に合致した潜在的欲望の表象顕在化されたものであったからに相違ないと,我々は了解せずにはいられないのではないだろうか。あらためて,聖衆来迎寺本「人道不浄相図」の画面に目を向けてみよう。屍体の朽ち果てていく陰惨でおぞましい光景に観者である我々は嫌悪感をおぱえる。しかし,それにもかかわらず,我々のまなざしは画面に惹きつけられ,描かれた屍体のある風景と肉体の細部の描写を見つめていたいという衝動に争い難い欲求を同時に感じてしまう。本論はこうした心的態度の背景と由来を,テクスト論に依りながら,解明したものといえよう。このように,滋賀県・大津市聖衆来迎寺が所蔵する国宝「六道絵」は単に『往生要集』に説かれる教理の絵解き画として位置づけられるより,むしろ,過去に生きた人々の受容の心性の歴史的立場からの解釈に開かれた作品と考えられるべきものなのである。紙面の都合上,今回私には述べるゆとりがなかったのが残念ではあるが,「人道不浄相図」以外の地獄をはじめとする六道幅・念仏功徳幅など聖衆米迎寺本他幅についても,同様のアプローチが私を含めた多くの日本美術史研究者により今後着手され,議論されることが期待される(注24)。そのためには,これからも引き続き真摯に仏教説話画を読み解く努力を怠ってはならない。(2) 『往生要集』巻上第五人道不浄(「日本思想大系」6(岩波書店・昭和45年)p37)先の人道不浄相についての記述も『大般若波羅密多経』と『摩詞止観』を参照して説いたものであると源信自信が注記している。それゆえ,『摩詞止観』は『往生要集』にとってのプレテクストであり,その意味において聖衆来迎寺本のプレ・プレテクストとも呼べる位置にある経典である。119, 120号・昭和16年)を参照のこと。-103-

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