鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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しゅぇ六万寺といへり,いまも土中よりこの像を掘り出すことあり,塔頭も四十二坊ありしが,今は廃して地名にその名を存せり,延暦年中,弘法大師この寺にて千手大悲の像を作り五剣山に安置し,当寺の奥の院とす。寿永二年七月二十五日,安徳天皇三種の神器を擁きて西海に行幸なりける。……天正十二年長宗我部元親当国を侵略せしとき,この寺に来たり……とあり,続いて宝物薬師如来鋳像長四寸,貞享五年村民,当寺の東の岸を掘りてこの像を得たり後に市店に売りつける。人ありてこれを求めて江戸にいたる。ある夜,随持仏光明を放つ,告げていわく,栖舎は讃岐国六万寺なり,早く其所へ返せということ三度なりければ,その人恐れて当寺におくる。これ六万体の一つならん。……と記す。これは先述した金銅如来像を指すものとみられる。つまり近世初期にすでにその存在を確認することができ,いわゆる古渡りの像であることが推察される。さらに『木田郡誌』には聖武天皇天平年中天下疫病流行して,死する者甚だ多し,帝行基に勅してこの地にー寺を建立し祈らしめ給うに,疫病終息し禾穀大いに稔る。因て国豊寺という。哀筆の額を賜い,新羅王より進献ありし,銅像弥陀を安置し封戸田園を寄付し給う。とあって古くから朝鮮半島から伝来したものとみていたのは興味深い。仏教伝播のルートに,このように明確にその痕跡を示すのは甚だ貴重といえよう。つぎに仏画をみたい。まず大阪・叡福寺蔵涅槃変相図は重要である。叡福寺本は通常八相涅槃図といわれるもので,図の中央に釈迦涅槃の場面を置き,その周辺に涅槃前後の出来事を描き込んだものである。これには図像的に次のように二つに分類できる。1.京都・万痔寺本,岡山・自性院安養院本,岡山・遍明院本など2.広島・耕三寺本,長崎•最教寺本,香川・常徳寺本など叡福寺本は後者に属するが,その描法は細密で,僧形人物が南宋画の香川・道隆寺蔵法華経曼荼羅図中の僧形人物に酷似すること,沙羅樹の葉の表現が南宋画の京都・長拉寺本に似ること,さらに渦巻く雲には濃く隈取りが施されていることなどから南宋直iとみてよい。そして諸相には短冊形の銘記欄があり,そこには「顕紫金身令見大衆」,「純陀供養」,「河神為得舎利口滅火」「為迦葉現両足」「河神投火為悉珍滅」「八国諸王-111-

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