っくり溶け合うものがあった,つまり浅井はもともと詩的なものを内包していたのである。その後彼は師をも越えてゆくのであるが。子規は浅井の作品についてはほとんど言及していないし,彼が浅井の作品をどれ程観たかは不明である。だが子規程の人物が「先生」と呼んだのである,人格とともにその仕事に対する畏敬の念があってこその呼称ではなかったか。この頃の浅井は,初期の代表作である「春畝」(明治22年),「収穫」(明治23年)をすでに明治美術会展に出品して,画家としての充実期を迎えていた。他の明治美術会の画家達の作品が型に嵌まった様式で,これもまた同様にありきたりの物語や歴史事象を題材に集中していた中にあって,際立っていた。彼は,自身の目で観た対象を絵にした。彼のリアリズムは,近代的性格を持っていたのである。近年,浅井の作品は,初めて日本人の日で,日本の風土を,油絵具を使って瑞々しく,抒情的に表現したものとして高く評価されている。しかもそのリリシズムは感傷に陥らず,作意もなく,淡々としながらも日本人の心情に訴えるなにものかを持っていた。子規は不折と議論することによって,また多くの実例を観ることによって,洋画のリアリズムに傾倒してゆくようになる。その実例の中に浅井の作品が多く含まれていたことは想像に難くない。否,むしろ不折の理論の背後に浅井の実例があったと考えられないだろうか。子規は不折と知り合って間もなくの明治27年8月13日,不折と共に(他に内藤鳴雪も同行)王子へ吟行している。この時子規は十数種の句を作っているが,不折が同行したせいもあって,意識的に写生的な句,絵画的な句が多くみられるようだ。例えば"初秋の石壇高し杉木立ち”"杉高く"杉暗し月にこぼる>井戸の水”まだ残暑厳しい頃である,しかし大気の中にはすでに秋の薫りが多分に交じっている。詩人の鋭敏な感覚は秋を肌で感じ,即座に句となり,歌となる。澄んだ秋の大気と高い青空が受け手にもイメージとなって目の前に浮かんで来る。句は初秋の清々しい気分を謳い挙げている,「石壇高し」とか「杉高く」と詠んだ所に秋の空気の澄みわたっている様がーロで語り尽くされているではないか。しかも空は晴れて美しい色をみせている。夕日もさぞかし艶やかな輝きをみせていたであろう。わずか十七文字で,これだけの豊潤な余情やイメージを盛り込めることの出来る俳句という文学にある種秋の夕日の茶店かな”(全集第2巻)などが挙げられる。-4 -
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