⑬ 平安時代宮中真言院における五大尊画像の研究研究者:同志杜大学嘱託講師栗本徳子空海が,上奏して,承和二年(835)に始修された後七日御修法は,玉体安穏,五穀豊穣を祈念する,年頭の護国修法で,正月八日から十五日の間,宮中真言院で修された。この修法では,両界曼荼羅のほか,五大尊画像,十二天画像が用いられたが,現存する東寺本五大尊画像と,京都国立博物館本十二天画像は,この真言院所用の画像であると考えられている。「東宝記』には,大治二年(1127)の東寺宝蔵火災によって真言院の五大尊・十二天画像が焼失し,同画像の新写にあたって,二組の五大尊・十二天画像が制作された経緯が記されている。すなわち,まず,宇治御経蔵本の大師御様十二天五大雌を写した画像が作られたが,「疎荒」との評をうけて鳥羽院の御勘発を蒙ったため,仁和寺円堂院後壁画を手本とした別の一組が,制作されたということである。近年,京博本十二天画像の研究が活況を呈し,その結果,現存本五大雌・十二天画像が,仁和寺円堂後壁画を写したものであることが,ほぼ認められるところとなっている。しかし,解決されなければならない問題は,いまだ残されている。そのひとつとして重要なのは,十二肌紀後半に成立したと考えられる「年中行事絵巻」(現存本は近世の写本)に描かれている真言院の段についてである。同場面には,真言院の中の様子か克明に描かれているが,その画中の十二天は,鳥獣座に座るもので,現存本(京博本)十二天の関樟毛座とは,明らかに異なる。鳥獣座十二天は,大師筆様と考えられるため,宇治御経蔵の大師筆様を写したとされる最初の一組が,絵巻に描かれている十二天と考えられ,疎荒として退けられていたものが,何らかの理由で,十二世紀後半に,真言院で復活していたのではないかと解釈されている。十二天画像の研究において,現存本を,真言院所用の十二天画像とするためには,この問題をより具体的に説明せねばならないのは,いうまでもないが,従来,比較的関心が低かった「年中行事絵巻」中の五大尊には,さらに検討すべき重要な問題があると考える。烏獣座十二天だけでなく,この画中画五大尊を分析した上で両者をあわせて,襄言院の後七日御修法と,五大尊十二天画像の関係を考えなければならない。ここでは,「年中行事絵巻」の五大尊の図像に注目し,その位置づけを行い,検討すべき問題の方向性を示し,現状での成果の報告としたい。-115-
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