鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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に写生があってこそ彼のいう精神が生まれてくるというのである。文章についても,子規はいう,例えば名所・旧跡を叙述するのでも,言葉を飾らず,誇張せず,ただありのまま,見たままに記すのがよい,須磨の景色を'’山水明媚風光絶佳,殊に空気清潔にして気候に変化少きを以て遊覧の人養病の客常に絶ゆる事なし。”(「叙事文」明治33年)などと書いてもちっともおもしろくもない,写生に成ってないのである,否,何の描写もされていない。須磨なら須磨独特の情景を詳細に描写すべきなのである。’'山水”云々の文ではそれこそ"精神の見えようがない”のである。読者をしてあたかも当地にいるような気分にさせる文にするべきなのだ。写生を手段にして読者に共感や感動を呼ぶものを創るべきなのである。共感や感動を呼ぶものを精神というのではないか。あるいは詩情,情感を内蔵させた余情豊かなものではないか。子規は浅井忠の絵に「精神」を見たのであろう。明治32年に子規は次のような和歌を詠んでいる。"色厚く絵の具塗りたる油絵の空気ある絵をわれはよろこぶ”空気ある絵とは,子規の句・王子吟行の"杉高くる冴え亘った秋の大気の様と共通したものである。子規のいう写生は,辺りの風物だけを捉えるのではなく,そうした風景,風物の引立て役であり,美の黒子である大気,風陽射し,土の匂い,水のせせらぎ等々を表出することなのではなかったか。この和歌はまさに浅井の絵を歌ったものではなかったか。浅井の作品には子規のいう空気やその他諸々の表現しにくい無定形の事物が描かれている。そうした表現し難いものを絵画化できたのは,浅井の中にあったリリシズムではなかったか。浅井は明治33年,フランス留学を命ぜられ,2月末に東京を発った。それに先立って子規庵を訪れた浅井は,病林の子規を慰めるため,晩秋の向島百花園を描いた水彩画の自作を贈った。その作品は水絵ではあっても,否,むしろ当時いわゆる脂派に属していた浅井の"色厚く絵の具塗りたる油絵”よりも,瑞々しく画面に大気が表現されていたにちがいない。この水彩画は病室にずっと掛けられ子規の慰めとなるのである。また「仰臥漫録」には浅井のグレー風景を描いた絵葉書が子規の元に送られてきたことが挿図とともに記されている。写真なのではっきりは分からないが,一連のグレー制作品に共通する潤いのある画面になっている。このように子規にとって浅井の存在は大きかった。浅井こそ「土瓶の写生が出来る人」だったのである。秋の夕日の茶店かな”にみられ-6-

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