鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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注版第4期(1) 河南省古代建築保護研究所「河南安陽霊泉寺及小南海石窟J『文物』1988年第4期(2) 河南省古代建築保護研究所『賓山霊泉寺』河南人民出版社1991年12月第1(3) 劉東光「有闘安陽雨慮石窟的幾箇問題及補充」『文物』1991年第8期丁明(4) 中國美術全集編輯委員會編『中國美術全集』離塑編13翠縣天龍山響堂山安陽(5) 河南省古代建築保護研究所「河南安陽霊泉寺及小南海石窟」(6) 丁明夷「北朝佛敦史的重要補正」窟の阿弥陀浄土変相図浮き彫り2点に着目し,『観無量舟経』による図像解釈をすすめ,阿弥陀浄土変相が成立した当初から『観無量痔経』に依拠していた可能性を追究していきたい(注18)。夷「北朝佛敦史的重要補正」『文物』1988年第4期石窟離刻文物出版杜1989年6月第1版第1次印刷同氏は窟門門額に刻まれた『華巌経低讃』を根拠に,北壁の仏坐像を慮舎那仏とみなす。しかし,筆者は丁明夷説と別様に考える。第3章において述べるように,『方法師錢石班経記』が窟門門額に刻まれたのは乾明元年(559)以降である。当然,その隣に刻まれた『華巌経偽讃』も乾明元年以降になったとみるべきである。つまり,小南海中窟の造像の方が刻記より早いわけである。筆者は北壁の腺像構成および施身聞偶図浮き彫りとの関係からみて,釈迦とするのが妥当であろう考える。(7) これらの題記は北涼曇無識訳『大般涅槃経』巻第十三聖行品第七之四による。(8) 『中國美術全集』図版解説には「弥勒為衆説法」とあるが,それは誤りである。またこの題記から,浮き彫りの主題が弥勒であると知られる。菩薩が説法する場面に表すことも併せれば,弥勒説法図浮き彫りは『観禰勒菩薩上生兜率天経』によると考えられる。(9) 窟門外側に刻まれた『華巌経1易讃』は,東晋仏駄蚊陀羅訳『大方廣佛華巌経』六十巻と部分的に一致するが,ー語一句,完全に対応するものでない。『文物』1988年第4期『文物』1988年-138-

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