より本来の絵画的分野においても,具体グループの制作はこれらの数年間に実験主義によって特徴づけられている。そして,ヨーロッパの同時代のアンフォルメル絵画(フォンターナ,フォートリエ,デュビュッフェ,ブッリ)や,アメリカの抽象表現主義(ポロック,クライン,トービイ,サム・フランシス)との類似を示しつつも,西洋のモデルから借りてきたのでは全くなかった。キャンヴァス上に穴を開けて制作されたルーチョ・フォンターナの作品と,50年代初期に嶋本昭三によって採用された同じテクニックとの年代の接近(1951年頃)には驚くべきものがある。具体の活動はかなり早く海外に知られた。おそらく,アーチストたちが展覧会の度毎に常に印刷していたカタログ誌である機関誌『具体』を通して。ジャクソン・ポロックは具体グループの初期の会報を所有していた。そして1956年に,日本のアーチストたちはポロックの友人B.H.フリードマンによって,彼の死を知らされた。フリードマンはポロックが喜ぶだろうと思って,具体宛てに手紙を書いたのであった。1956年4月に『Life』誌のレポーター2名が具体についての特集記事を書くために日本にやってきさえした。しかし,この記事はその後あまりに前衛的過ぎるとして酷評された(この記事のための多数の写真が残っている)。『NewYorkTimes』も1957年5月に具体の絵画以外の活動についての熱狂的な記事を掲載していた。しかし,具体の活動のその後の発展に最も決定的な出会いは,フランスの美術批評家ミシェル・タピエとのそれである。彼は1957年9月に大阪に赴き,そのしばらく後,具体の西洋への紹介の推進役をつとめ始める。タピエは多くの具体海外展をオーガナイズする。1958年ニューヨークのマーサ・ジャクソン・ギャラリーで,1959年トリノのガレリア・ノティツィエで,そしてまたトリノの他のスペースで繰り返し展覧会が開かれ,具体のアーチストたちと共にしばしば著名な生け花の家元勅使河原蒼風も参加した。およそ1958年から1965年まで続く,具体美術の第二段階はこのように始まり,その間にグループは国際的レベルで知られるようになった。しかし同時に,絵画以外の制作は中断された。それは,強くアンフォルメル的性格の絵画制作により集中したためであった。実は,具体とアール・オートル(もうひとつの芸術ータピエはこれを1952年に著作の中で理論化した)を結びつけようとしたタピエが特に評価したのは具体のこの局面だった。西洋ではこのようにして(そして,結果として日本でも),部分的かつ制限された具体のイメージが普及した。これらの数年間に具体のアーチストたちは大阪にグループの美術館<グタイピナコ-141-
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