鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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3.子規の写生(画)について子規が本格的に絵を描きだしたのは,明治32年の秋頃からであった。彩色画を描いてみたいと,戯れに言った言葉を真に受けた不折が絵具を持ってきてくれた。暫くそのままにしていたのだが,気分の良い日,秋海棠を見ているうちに,絵心が湧いてきて,絵具を取出して写生をしたのが始まりであった。その絵を浅井や不折に見せたところ非常に褒められたという。気を良くしたのであろう,それからはしばしば写生するようになった。子規の写生の取材範囲は,限られたものであった,つまり病林から見えるものと身の周りの物や友人,弟子達が持ってきてくれた物などである。「仰臥漫録」には興にのって写生したものがかなり載せられている,それらは写生とは言え,文人画風である。その中の10月13日(明治34年)の項,母を外出させた後,誰もいない病林で子規の苦痛は最高潮に達していた,彼は脇の硯箱に目をやった。そこには二寸ばかりの小刀と千枚通しがあった,この二つが彼の自殺熱を極限にまで駆り立てて行くのである。死ねばこの苦しみから逃れることが出来る,子規にとって死は恐ろしいものではない,死へ辿りつくまでの苦痛が恐ろしいのだ。為損なえばなおのこと。二つの凶器を手に取ろうか,取るまいかとの葛藤には鬼気追るものがある。その上,子規は文末に,"古白日来”と記している。それは明治28年に自殺した従弟の藤野古白の霊に呼ばれたかのような悪夢の一時であった。その上,子規は自らを死の世界にまで誘った小刀と千枚通しを写生しているのである。ここには死の淵にまで追詰められて,死神と闘っている子規とそんな彼を冷静に見詰めているもう一人の子規がいる。感傷に溺れず,己自身でさえ対象化させて観察している子規が。もう一人の子規がいた故に彼は自殺せずに済んだのである。しかも小刀と千枚通しを描くことによって,自身の心理の深層部にまで,「写生」の目は突き進んでいるのである。文章以上にこの二つの凶器は子規のその時の心理状態を語っている。先に記した不折の"対象が小さい場合,実物より大きく描くと良い”との忠告を和歌で実践したのが「墨汁一滴」にある有名な「藤の花」連作である。子規はいわば和歌によって,"静物画”を制作していたのである。藤の花と花瓶という「死せるもの」と対峙した歌詠みが自已の内面で対象を解体し,再構成しようと試みた,実物よりも大きく見ることがそれを可能にした。静物画は画家が対象を媒体として自己を投影さ-7-

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