売新聞に書いている「われわれは今日まで閉じられた場所で行なわれていた美術展を野外にもち出すことにした。彫刻だけでなく,造形物を展示する美術展は,別の場所ではあり得ない特性をもつ。太陽,風雨といった自然の条件に従いながら,大地と直接に結びつく実験だ」。自然の要素は,作品を場所に順化させる以上に,しばしば作品を構成するのに役立った。元永定正の場合の水や,吉原通雄の場合の大地のように。村上と堀井の作品では,太陽が追跡に役立っていた。これらの自然の要素に,後に日常的な物質や落ちている廃棄物の使用が取って代わる。喜谷の皿からビー玉,金山明の鉄道の信号,水口の着物の布地,工業機器のスクラップ,着色された木の断片まで,或いは一面に釘やマッチを付けられた細長い板から金属の薄板や蚊帳まで。これらの具体の制作をダダイズムのような歴史的先行物から分けるものは,インターフェアーの自然さである。またコンセプチュアルな考察という性格を全く表に出さない,作品の構成において洗練されたオブジェも同様に重要である。それ自体で美しい物体(或いは自然の要素)がある。しかし,作品はアーチストとのそれらの直接の出会いによって生まれる。アーチストはそれらに彩色し,それらをまとめ,それらにわくをはめる。物質自体への『反応』という幸福な心のはずみに従って,遊んでいるように。この仕事の中には,自然の色彩調合という,ほとんど子供っぽい喜びがある。オリジナル作品は失われたが,その現存するカラーフォトを観察すれば,このことに大変明白に気づかされる。オブジェの場合,物質はほとんど決して生のままにされてはいない。それどころか,目立った特徴のある鮮やかな顔料で彩色されていた。自然の要素自体も,元永の場合の水のように,色彩を加えられていた。これらの野外展におけるもう一つの最も明白な斬新さは,観衆を巻き込むことであった。例えば,観衆は,白髪の泥の中で彫刻を『再構成する」ように招かれたり,嶋本の作品のそれらのように特別なコースに導かれたり,また吉原治良の作品におけるように矛盾した構築物,接近できない部屋に入るように招かれたりした。このタイプの美術作品の重要性は,とりわけ西洋美術のその後の発展に照らして,大変大きい。具体のアーチストたちは絵画という物質的限界を越えていった最初の者たちであった。作品のために自然の要素にも頼りつつ。そして,美術批評は今や,国際的なアヴァンギャルド文化へ日本から重要な貢献があったことを一致して認めてい-143-
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