ment and Happenings』という題の,後に有名になる本を出版した。この著作においンズが私に指摘してくれた。以上の絵画は,ほとんどタピエの企画した展覧会によって1958年からどんどんとヨーロッパと合衆国に入って,そこで今まで残っている。またやはりニューヨークで,私は新しい証言を元に,具体グループのアーチストたちとジャクソン・ポロックの関係と,ニューヨークでの具体の展覧会の後,1959年頃生まれる,アメリカのハプニングヘの具体の実質的な合流とに,より焦点を合わせようとした。私はこの点について,ハプニングに関するアメリカの代表的理論家,アラン・カプローにインタビューを行なった。カプローは1966年に『Assemblages,Environ-て,たとえカプロー自身が彼の初期のハプニングの時点で具体を知らなかったとしても,日本のハプニングがアメリカのハプニングに先行していることが確言されている。インタビューにおいて,カプローは基本的にはこの事実を確認した。しかし,同時に,彼は1957年にニューヨークタイムズの12月18日号に載った具体の実験的な活動についての評を読んだことを認めたのである。有名なポップの画家ジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグ(彼らは1964年にグタイピナコテカの招待を受けた)へのその他のインタビューから,私は具体の舞台を使った活動が60年代初期のアメリカのアーチストたちから関心と賛嘆をもって見られていたことの明白な確証を得た。最後に,やはりニューヨークで,B.H.フリードマンを見つけ出し,インタビューすることができた。彼は機関誌『具体』6号(1957年5月)に載った囲み記事によれば,ジャクソン・ポロックの死の翌日に具体のアーチストたちに悲報を伝え,ポロックが彼らの機関誌に関心をもって,その数号を所有していたと述べた。フリードマン氏との接触はとりわけ実り多かった。多くの批評家が,上述の囲み記事に確言されたことの真実性に疑念を表明していたからである。ところが,フリードマン氏は私に確認を与えてくれただけではなく,彼が当時具体のアーチストたちに書いた手紙のコピーを親切に託してくれたのである。そして,この手紙の後,彼らは長く文通を続けたが,これについて私は私の次回の具体についての発表において再現する許可を得た。最後に,私はポロックのスタジオ(現在は美術館となった)を訪ねるためにイースト・ハンプトンに赴いた。ここで,私はまさにこの大アーチストが所有していた機関誌『具体』の二つの号を検討することができた。-146-
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