さて,これら4件の資料には蒔絵の表現で気づいた共通点があるので挙げておこう。まず,瑞鳳殿資料のうちの菊唐草蒔絵箱の菊唐草と,高屋家薬競笥の引き出しの菊唐草は,大きさは異なるが意匠としてはほぼ同じと言ってよい。強いて違いをあげるならば発掘資料の方には単弁・副弁の菊のほかに捩り菊があるという程度である。また,バチカンの親書箱の南蛮唐草と鏑藤四郎の蓋受けの南蛮唐草は,大きさや精緻さの点では比較にならないが,霊芝雲的な処理という点では共通しているように思われる。これらの関連は単なる偶然なのか。当時の流行であり,どこのエ房でも行っていたことなのだろうか。浅学の私には結論は出せないが,伊達家関連資料でありながら異なった伝来を持つ4件の資料に近似の意匠・手法がみられることは注視すべきであり,ある程度発注先すなわち工房の存在を限定して考えてもよいのかもしれない。さて,再び瑞鳳殿出土資料に目を戻してみよう。副葬品を見ると政宗の趣味には幅かあり,伝統的な蒔絵の資料と,当時流行の蒔絵や意匠への興味,そして金製ブローチや銀製服飾品のように南蛮の資料への興味が見てとれる。政宗のこうした嗜好を裏付ける記録があるので取り上げてみよう。「御物之帳」と題するこの冊子は,伊達家旧蔵資料の一つである。2冊から成り,数多くの染織品,「御遺武具」と称する具足類,馬鎧,刀剣などが書かれている。中には慶長6年6月14日の算用との年紀も見られる。慶長8年の「秀頼様御祝言呉服之帳」および慶長6年6月の「万渡方帳」と同じ括りにされており,成立時期も近いと思われる。また,一括りにされていたのは勘定方か納戸方のような財産管理に係わる部署で作られたためと考えられる。しかし,冊子の寸法は「秀頼…」とは異なっており,阿容から見ても成立事情や資料の性格は異なる。「御物」とは,現在我々は皇室財産を指すが,元来は位の高い人の品物という意味である。内容から見ると男性であり,鏑藤四郎とその二重箱を持ち,掛硯中に政宗の師であった虎哉の書や,秀頼の書を持つ人物である。こうした諸条件をすべて満たすのは伊達政宗以外には考えられない。「御噛之帳」の最後には僅かではあるが,漆工品の記載もある。染織品や刀剣類に比してあまりにも少なく,身近に置いてあったものを書き取らせたような内容である。「御物之帳」は政宗の上洛や下向,仙台城への移転,戦の準備など,何かの都合で,急ぎ作らせたものではないかと考えられる所以である。この「御物之帳」を見ても,大量の殿飾資料の中には縞物やビロード等,舶来品が多く見られる。漆工品を見ると硯箱は「から松のまきゑ」,「千鳥のまきゑそといゑ桜まきゑ」,賢道具は「きくのまきゑなし-149-
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