鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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ち」とあり,いずれも伝統的な蒔絵ではないかと想像される。しかし,同時に「南ばん字」や,「すなとけい」,「なんはんか、み」という奇異な記載も見られ,支倉常長を「奥南蛮」へ渡らせた政宗の,南蛮への興味を示す内容となっている。「御物之帳」成立が慶長6年から遠くないとすれば,政宗は慶長遣欧使節派遣に深く係わるソテロやビスカイノに会う慶長16年以前に,こうした南蛮の文物を手元に置いていたことになる。2.婚礼調度伊達政宗は慶長11年,娘の五郎八姫を家康の六男•松平忠輝に嫁がせた。年不詳6月3日付政宗書状によると,「鶴屋」から取り寄せた幾つかの鏡台から一番良いものを選び,「かづさ殿」(忠輝)の屋敷へ運ぶようにと命じている。源氏の絵のものが良いと付け加えている。この「鶴屋」は,いまだはっきりとはしないが,蒔絵師そのものではなく,蒔絵の品物を扱う商人と考える。同じ人物かどうかは不明だが,「鶴屋」は政宗の茶会に呼ばれていることが,最近判明した。候補としては小堀遠州の茶会に出席している「鶴や清兵衛」や佐竹家に鉄砲を調達していたという鶴屋権左衛門があげられるが,確証を得ない。婚約は慶長4年であり,婚礼調度を用意する時間は充分にあると思われるが,鏡台を選んですぐ運べとはどういう意味であろうか。幾つかの既成品の中から婚礼調度を選んだのであろうか。五郎八姫の婚礼については今井宗蕉が深く関与しており,今後こうした方面からの記録が発見される事を期待したい。次に,秀吉の愛妾であったお種(香の前)の調度として,亘理家に伝わった化粧道具を見てみよう。紗綾形に地を割り,紫陽花や椿の花樹と貝類を配している。引き出しの脇の文様は前述の葛蒔絵箱に似た雰囲気を持っており,江戸時代初期の様相を示すが,全体としては素直に桃山ぶりを示した資料ではない。このため,一世代下がって,お種の娘であり寛文事件に登場する原田甲斐の母,慶月院の所用の可能性もある。秀吉の愛妾であったお種は賭碁によって伊達家家臣・茂庭綱元に嫁したと伝えられる。お種は慶月院と亘理宗根を産んでいるが,実はこの2人は政宗の子であるという説がある。政宗の血を引く慶月院の所用であればそれなりの豪華さも肯首できようが,結論は急がず,今後の調査の課題とする。-150-

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