ヽノヽノヽ7江戸中期には享保20年の伊達宗村と紀朴l徳川家の利根姫の婚儀があり注目される。この婚儀に関しては,縁談が内々に進む段階からの記録が残っている。徳川家から姫を迎えるに当たって「御守殿」の仕様から,婚礼調度に至るまで,どの程度のしつらえにすれば妥当かを,幕府要人に問い合わせ指示をあおいでいる。この頃,徳川家から薩摩へ嫁した竹姫の婚礼に際して,それぞれの大名からご祝儀という形で婚礼調度が調えられている。竹姫の婚礼に関しては伊達家も参考にしていたようで,薩摩へも問い合わせたり,婚礼次第について纏められたものも伝存している。この頃の蒔絵師の状況について,「獅山公治家記録」享保14年の条に「御道具寸法井仕方紐等之儀ハ,幸阿弥因幡,円阿弥丹後,奈良土佐,栗本駿河江可承合候」として4名の蒔絵師の名が出ている。また,記録によると利根姫の婚礼調度の意匠としては菊の文様がよく使われたようである。従来から利根姫調度として言い伝えられてきた耳盟と台輪があるが,この意匠もまた菊蒔絵であり,記録の「黒漆蛾色御紋井菊之模様高蒔絵」という記述と一致する。黒漆地に土波と菊を薄肉高蒔絵とし,菊と葵紋は銀切金に金を蒔き,耳の部分も金鍍金の銅板で巻いた灌洒な作りである。江戸時代初期の初音調度や綾杉地獅子文蒔絵調度にみられる絢爛豪華な感じではないが,格式を備えた調度になっている。利根姫調度は記録中には数種類の文様の名が散見されるが「村梨地御紋井菊之④⑤ 貝尽し蒔絵等「玉簾」(部分)宇和島伊達文化保存会蔵③ 花鳥山水蒔絵等(部分)仙台市博物館蔵r -152-
元のページ ../index.html#160