鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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⑰ ユトレヒト詩篇とそのコピーを中心とした西欧の全篇挿絵入り詩篇写本群の研究研究者:名古屋芸術大学美術学部非常勤講師はじめにユトレヒト詩篇(9世紀)と3点のコピーは,伝統の継承,中世絵画の空間表現の変遷といったレヴェルに留まらない問題を芋んでいる。従来の研究は概括的であったが,近年特にハーレー603番とエドウィン詩篇を巡る論考が活発である(注1)。今回取り上げるのは,3点のコピーの中で最も制作年代の新しいBN8846(パリ,国立図書館蔵)である。テキストと前半部の挿絵は,1200年頃にカンタベリーで制作された。テキストはガリカン,ヘブライ,ローマ版詩篇に古英語,古仏語訳を伴い,書体や複雑なレイアウトはエドウィン詩篇とほぼ同じである。但し写本は挿絵が完成する前に何らかの経緯でカタロニアに渡り,14世紀にサン・マルコの画家のエ房で未完成部分の挿絵とイニシャルが加えられた。この部分は原本を離れてはいるものの,テキストを何らかの方法で反映している。尚,写本は15世紀にベリー公ジャンに所蔵された後,ブルゴーニュ公国を経てブリュッセルにあったが,1796年にパリにもたらされた。前半部の挿絵は「1200年様式」,即ちロマネスクからゴシックヘの過渡期を代表する作例である。金と濃彩を使い,流麗な輪郭線で描かれたこの部分は,ユトレヒト詩篇のコピーが到達した最終地点であると同時に,壁画やステンドグラスを含めたカンタベリーの造形活動の一環としても捉えるべきであろう。一方14世紀の部分も金地に濃彩を使った装飾的な技法で描かれているが,その質は凡庸である。従って簡単な記述や制作の背景に関する研究は行われているものの,個々の挿絵の内容やテキストとの関係などは十分に分析されていない(注2)。1世紀以上の間隔を置いて描かれた全46点の挿絵は,ユトレヒト詩篇とは無関係なものとして扱われてきた。確かに,この部分がカンタベリーにおけるコピーの伝統から離れた環境で制作されたことは事実であろう。しかし前半部にも14世紀の画家が完成させたコピーが6点あるので,画家は残された下絵を完成させる作業を通じて挿絵の構造を理解していたと考えられる。本研究ではBN8846の写真図版を元に,後半部の挿絵の詳しい調査を行った。挿絵の1. BN8846について鼓みどり-155-

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