鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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゜他例のうち,明らかに万行寺像をさかのはる作例は⑮専修寺像である。典型的な安Vヽ製作時代について一群の像のうち,銘記等で製作時の判明するのは,⑳万行寺像ただ1件である。像底の銘記により,仁治3年(1242)法橋快成の作であることが知られる(注8)。快成は他に3件の作例が現存し,奈良の善派系統の仏師と考えられている。また⑯芦浦観音寺像は,銘記の類は知られないが,光背の意匠が元徳2年(1330)銘の大津市・聖衆来迎寺地蔵菩薩立像に近似することから,これにちかい時期の製作と推定される(注9)。聖衆来迎寺地蔵像は院芸という院派仏師の作で,芦浦観音寺像も同系統の作とみてよ阿弥様の像であり,しかもできばえはすぐれ,快慶自身の作域にかなりちかいようにみうけられる。ことに,承久3年(1221)の奈良県川西町・光林寺阿弥陀如来像,同じころの作と考えられる和歌山県高野山・光台院阿弥陀三尊像中尊に酷似するが(注10)'それらより形式的な複雑さをわずかに増していることからすれば,若干くだる時期の作であろうか。快慶その人の作かどうかなお検討を要するものの,快慶の高弟行快が文暦2年(1235)に造った滋賀県西浅井町・阿弥陀寺阿弥陀如来立像よりは衣文構成に整斉の観があり,これよりはさかのぼる製作と考えざるをえない。いずれにしても,この像はいま知られる仏足文を有する阿弥陀立像最古の遺品であろう。他は13世紀なかばごろから,南北朝時代初期ごろの作と推定されるが,個々の作例についての所見はここには略す。仏足文を有する阿弥陀如来立像の展開に関する憶測一群の像のなかで最古の像と目される⑮専修寺像はいま真宗高田派本山専修寺如来堂本尊であるが,専修寺10世真慧(1434-1512)が比叡山より受領した像と伝える。伝えるように比叡山にあった像であること,かつ作風から判断されるように快慶ないしその周辺の作であることを認めるならば,この像は一群の像の祖型となった可能性もある。たしかに,着衣形式Aに属する,仏足文表現のみを有する像は,この像ないしこれと同種の像にならって造られたものかもしれない。着衣形式はこの像と異なるが,厳密な意味での安阿弥様の像が,快慶以後にはかならずしも多くないことでわかるように,着衣形式などは時代の流行にあわせて自由に変化して,仏足文の表現とその技法のみが継承されたのである。⑯芦浦観音寺,⑱正善寺の2像が天台系の浄土信仰に-172-

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