もとづく造像であるとする見解があるが(注5)'比叡山に専修寺像のような像があったとすれば,これらの造像の契機も想像しやすくなる。これらに第1• 3指を捻ずる来迎印が共通することもあらためて注意を要しよう。しかし問題は,着衣形式B-2に属する,仏足文の表現のみならず,安阿弥様とは異なる着衣形式をはじめとする独特の像容,さらに歯相や銅線を巻く螺髪,銅製の手などの特異な表現あるいは技法を共有する一群の像である。これらが共通の祖型をもつと想像されることは前記したが,専修寺像はその祖型とも何らかの関係があるとみるべきであろうか。以下はまったくの憶測であるが,本研究でとりあげたすべての像の祖型となる原像かあったと仮定して,私見をまとめておこう。原像は,日本彫刻史上ではきわめて異色の像であった。そしてその異色ゆえに,一種の瑞像として尊ばれたのではないであろうか。像底に台座から立てた細い柄を通す技法や,着衣形式B-2に属する諸像の作風が原像にならったものとすれば,唐末から宋時代ごろに製作された,中国からの請来像であった可能性もあろう。鎌倉前期に,快慶ないしそのエ房の仏師がその模像を造ることがあった。快慶一流の整理癖により,原像の異色はあまり反映せず,足裏の仏足文のみを写した(水晶製の爪,銅板製の薬などに原像の気分の反映はあるのかもしれない)。これが専修寺像であり,それをさらに写していった像が着衣形式Aの諸像の多くである。また,鎌倉中期以後のある時期,原像がふたたび注目され,模像が造られることとなる。そのときには,原像の像容や特異な技法なども着目されることとなった。むろん像によって適宜諸要素の採否が行なわれることはあったのであろうし,津拠の度合も多少相違したのであろう。これらが着衣形式B-2の諸像である。問題を極度に単純化したが,このように想像すれば,いちおうの筋道はとおるように思う。実証は今後の課題である。ともあれ,仏足文を有する阿弥陀立像の展開は,善光寺式阿弥陀三淳像や清涼寺式籾迦像にみるような造像にあたっての典拠主義,また,仏像を造りものではなく,より具体的・現実的な肉体をもった仏(生身仏)として表現しようとする一種の現実主義,という鎌倉時代彫刻を特色づける二つの相を顕著に反映しているように思われる。注:(1) 金沢邦夫「歯吹如来像の表現とその意義」(『美術史研究』101973年3月)所掲の-173-
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