付いていたことを思わせる。この画家が1630年代以降,風景画をはとんど手掛けなくなるという興味深い出来事の背景には,彼がこの時期からバルベリーニ家に重用されるようになって,大規模な装飾フレスコ画や宗教画の制作に追われ,風景画に余力を割けなくなった,という事情もあっただろう。しかし,風景画の最も重要な注文主であったマルチェッロが,1629年に歿していることも無関係ではないと思われる。何れにしても,コルトーナにとって風景画が制作の重要な部分を占めたのは1620年代の一時期でしかないが,そうした短い期間にあって,コルトーナは単純な風景画から,景観図,ドラマチックな山岳風景から理想風景画に至るまで極めて多様な内容を扱っている。このことは,コルトーナが実に技巧豊かな画家であったこと,そして少なくともこの時期,彼にとって風景画が決して気晴らし的な余技ではなかったことを示している。コルトーナは1610年代の半ばにローマに出て修行を積み,1620年代の始めにサケッティに見い出されて成功への道を歩き始めていた。1620年代の半ばに,サケッティ家とも親しかったバルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世が登場すると,コルトーナはさっそく,サンタ・ビッビアーナ聖堂の壁画装飾に登用され,次第にローマ絵画界の中心的存在となっていく。1630年代にはいるとバルベリーニ宮殿大広間の天井画を錨く一方で,ローマの美術アカデミー(アッカデーミア・ディ・サン=ルーカ)の院長を勤め,またサンタ・マルティーナ聖堂の改築を手掛けるなど,彫刻,建築の分野におけるベルニーニと並ぶほどの存在となった。コルトーナの画家としての生涯において,1620年代は,彼が自らの芸術的才能を完全に開花させた時期だった。歴史画においても,彼が1620年代の前半に描いた『バッコスの勝利』(カピトリーノ美術館蔵)と,1631年頃に描いた『サビニの女たちの掠奪』(同上)は,画面構成はもとより個々の登場人物の表現も大きく異なっている。後者はより大胆な構成と,華やかで躍動感溢れる人物描写で際立っており,コルトーナの絵画がこの間に「バロック的」な傾向を強め,自身の画風を確立していったことを教えてくれる(注13)。この変化の背景には,コルトーナ同様にバルベリーニ家に重用されていたベルニーニの影響も認められる。だが風景画の領域でコルトーナはどのような影響を吸収し,『二つの神殿のある風景』のように素晴らしい風景画を作り上げたのだろうか。-191-
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