5. 17世紀ローマにおける風景画の受容17世紀になって,ローマで,かつてなかった程,風景画が描かれ,収集されるようダラのマリア』(ナポリ,カポディモンテ美術館)(注25)における風景描写との類似性も感じさせる。何れにしても,コルトーナの風景画が独自の雄大な世界を現出した個性的なものとなっている以上,その源泉をただ一人の画家に特定することは困難であろう。さて,コルトーナの風景画制作か,彼のパトロン,マルチェッロ・サケッティの意向と密接に結び付いていたと想像される点についてはすでに触れたが,こうしたパトロンと画家との関係は,この場合だけが特別だったわけではない。ドメニキーノの場合にも,その古典的美術理念の形成においてのみならず,実際に制作する絵画のプログラムや構成についてまで,アルドブランディーニ枢機卿の家令であり,17世紀前半を代表する人文主義者の一人で,後にベッローリが完成させる17世紀古典主義の美術理論を構想していたジョヴァンニ・バッティスタ・アグッキの存在は重要だった。この人物は,アンニーバレ・カラッチやドメニキーノと深く交流しており,彼らの描く絵の主題はもちろん,表現についても強く影響した(注26)。例えば,先に挙げたフラスカーティのアルドブランディーニ枢機卿の別荘における風景画のプログラムを提供したのもアグッキだったと想像されている(注27)。アグッキに限らず,17世紀前半のこの時期,ローマで風景画を享受する立場にあった人々は,どのように風景画を受容していたのだろうか。になるのと平行して,美術を享受する人々の間でも風景画表現を論じることも行なわれるようになっていった。この時代のローマの知識人で,風景画を細かく取り上げて分類し,同時にそれについて論じたという点で興味深いのはジュリオ・マンチーニである。既に述べたように,マンチーニはピエトロ・ダ・コルトーナの最初の伝記を書き残した人物としても重要だが,彼の未完に終わった『絵画論』の草稿には絵画のジャンルによる分類とそれぞれの特質について触れた部分がある(注28)。彼は風景画を,そのモチーフの種類によって分類する。1)天地創造時の地球を描くときのような,生物のない単純な風景(paesesemplice senza anima), 2)人気のない森の情景のように,人物はなく木立だけが描かれた風景(paesearboreo), 3) -196-
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