鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
207/475

6.カステル・フザーノの室内装飾とコルトーナの風景画ンニーバレやドメニキーノの古典的風景画,バンボッチアンティの風俗画,ローザによるピカレスクな風景画と関連するとされるのである(「喜ばしい場所」というロマッツォの分類は,クロードの風景画に対応するとされる)。以上かいつまんで見たように,実際の制作の場面においても,美術理論の面においても,17世紀のローマでは風景画がかつてないほど関心を集めていた。ローマという大都会に住む人々にとって,歴史画や宗教画や壮麗な装飾フレスコ画ほど公的ではなぃ,風景画ないし風景表現が,マンチーニも述べるように「目と想像力をリフレッシュさせる」気晴らしとして受け入れられたこともあろう。マルチェッロ・サケッティも風景を愛好するパトロンの一人だった。コルトーナは彼のために様々な風景画を描いたし,また,彼がカステル・フザーノに建てたヴィッラのとりわけ,礼拝堂の内部装飾には,この人物の風景画への傾倒ぶりがよく現われている(注37)。〔図11〕この礼拝堂では,祭壇に描かれた『羊飼いたちの礼拝」を始め,その周囲に配された『我に触れるな』〔図12〕,『エジプトヘの逃避』〔図13〕,『聖ペテロと聖アンデレの拓命』〔図14〕,『キリストの洗礼』〔図15〕,『キリストとサマリアの女』〔図16〕など,全ての場面が屋外の情景で占められているのである。礼拝堂に風景を描くこと自体は必ずしも目新しいことではない。16世紀前半でも,ポリドーロ・ダ・カラヴァッジォが『マグダラのマリアの物語』と『シエナの聖女カタリナの物語』を雄大な風景のなかに描いた,ローマのサン・シルヴェストロ・アル・クイリナーレ聖堂の例などが想起される(注38)。しかし,礼拝堂の全体を風景表現で埋め尽くした例は,少なくともこの時期まで他に見られない(注39)。このように徹底した風景描写の採用は,もちろん,この礼拝堂が私的な性格を持つものだったからこそ可能になったのであろう。そうであれば,その決定には,パトロンであったサケッティの意向が大きなウエイトを占めたはずである。また,この礼拝堂がローマという都会を遠く離れた,田園地帯に建つ別邸のものだったことも,全体を風景画で構成すると決定された一因となったであろうことも想像に難くない。その意味では,先に触れたドメニキーノによるフラスカーティの先例の影響を指摘することも可能であろう。メルツは,この別邸では広間やギャラリーにも世界地図や風景が-199-

元のページ  ../index.html#207

このブックを見る