鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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ちりばめられていることを指摘し,礼拝堂のみならずこの建物の内部装飾全体が,郊外別邸のそれとして一貰させられているとしている(注40)。さて,この礼拝堂の風景画は,コルトーナが1626年から28年にかけて制作したものであり,彼が風景画を描いた最も遅い時期とほぼ重なる。それぞれの場面を眺めて際立っているのは,主題によってコルトーナが巧みに画面の雰囲気を描き分けていることである。例えば,『聖ペテロと聖アンデレの招命』〔図14〕では,ひな形でも見たように,遥か彼方までひろがる水面が際立つ。水平線が画面のほぼ真ん中を走っており,その上には白い雲が沸き起こって夏の湖を感じさせるような明るい情景となっている。また『キリストの洗礼』〔図15〕でもヨルダン)1|はまるで湖のように広大で,中景に小さく都市が見えている。上空には父なる神が雲と共に登場して祝福を与えている。画面は広大で,ドラマチックな印象を醸し出している。登場人物の背後に水面が広がり,中景に都市,そして背景には右手に山を配している点,そしてまた雲と雲間を通して降り注ぐ太陽光とのコントラストをつけて画面に生気を与えている点など,画面構成上からは,チャッツワースの『聖ペテロと聖アンデレの招命』により近いものを感じさせる。だが,コルドーナは,『エジプト逃避』〔図13〕では,大きく異なる風景描写を見せる。ここでは左手から登場する聖母子を取り囲むのは,深い山奥を感じさせる岩山やせせらぎ,頭上を覆い尽くし襲いかかるような木々である。人工的なものは何も無い。ここで自然はまるで無防備な聖母子を押し潰そうとしているかのような印象を与えている。前者に見られた,神の存在を感じさせる広大な風景と,後者に認められる,圧倒的で暴力的な自然の表現との中間的な雰囲気を持つのが,『キリストとサマリアの女』〔図16〕や「我に触れるな」〔図17〕である。両者は共に,前景に人工物(井戸や柵)と自然物(木立)とが配され,日常的な雰囲気の背景となっていると言えよう。『サマリアの女』では特に,比較的前景に近い場所に都市が描かれ,また,他の登場人物たちの姿も垣間見られる。コルトーナは,カステル・フザーノの礼拝堂における一連の風景表現で,画面の主犀に応じて様々な雰囲気の風景を描き分けて見せている。少なくとも,『キリストの洗亦し』や『聖ペテロと聖アンデレの招命』に共通する,広大でドラマチックな風景と,-201-

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