鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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『エジプトヘの逃避』における,幾分とも閉鎖的で暗い印象を与える風景との違いは否定できない。この関連で想起されるのは,プッサンが1647年付けの著名な手紙で展開しているモード論である(注41)。彼がこの手紙でシャントルーに述べているのは,ちょうど作曲家が様々な雰囲気の音楽を作曲し分けるように,作品の主題や内容に応じて画面の構成や表現を変える,という彼の手法である。この手紙におけるプッサンの記述が彼の独創ではなく,1558年にヴェネツィアで出版されていたジュゼッペ・ザッコリーニの『音階教育(Istituzioniharmoniche)』の引き写しであることはブラントによって指摘されて久しい(注42)が,フ゜ッサンが実際に様々な主題に応じて様々なモードを描き分けたことは,彼の同時代人であったフェリビアン以来,確認されている。プッサンがこの手紙を書いたのは1647年のことだが,その基本的な考えは既に1630年代には生まれていたともされる(注43)。コルトーナはプッサン同様のことを考え,あるいは実行していただろうか。彼はほとんど体系的な著作を残しておらず,文献の上からそれを知ることはできない。また,プッサンほど厳密に,主題と表現との関連を音楽理論ないし弁論術の厳密な規則に対応するように区別したようにも思えない。だが彼が,一度ならず画面における多様性を推奨していることを念頭におけば,コルトーナがプッサンほど徹底することはなかったにしても,絵画の主題と表現について何らかの対応関係を考慮しており,それを風景画に活かそうとしたことは十分に想像できるように思える(注44)。コルトーナは,自ら作品の主題を決定することかなく,常にパトロンの求めに応じてどのような絵画をも制作したと伝えられる(注45)が,こうした自負も,彼が主題に応じてそれぞれ適切な表現を選択しうることを自認していたことを反映しているのではないだろうか。そして,こうしたコルトーナの発想の豊かさが,彼の一連の風景画の多様さに反映されているように思えるのである(注46)。<図版一覧表〉〔図1〕河と橋のある風景(17X 27. 5cm)(カピトリーノ美術館蔵)〔図2〕港の風景(16.2X26.7cm)(同上)〔図3〕トルファのミョウバン鉱山の風景(61X75cm)(同上)〔図4〕二つの神殿のある古代風風景(111.5x 85. 8cm)(ヴァティカン美術館)-202-

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