梁中大通元年(529)銘像〔図1〕この釈迦像は,北斉,北周に先行して6世紀前半に,梁武帝の甥の蘇範が造営した仏像である。蘇範は,梁武帝の弟子の蘇恢の息子である(注5)。釈迦像に記された中大通元年(529)は都陽王蘇恢が死んでから3年目に相当する時期であり,また銘文に記す像主の称号を郡陽王の世子としていることから考えると,蘇範が死んだ父の蘇恢の冥福を祈ってつくらせた仏像であった可能性もまった<否定できない。この如来像が当代の王族がパトロンとなって造立した一流の仏像であることは十分理解されるのである。イ)身体表現:きわめて薄い通肩の法衣を通して身体の輪郭を明瞭に表している点,胴体と両腕との間,そして脚と脚との間を大きくくぼませて,身体の各部分間に彫塑的な距離を明瞭に付与している点,肩が広く張っていて壮大な印象をあたえる点,広く張った肩に比して腰部は引き締められており,したがって肩から腰にいたる身体の輪郭線が変化に富んでいる点,胸部では膨らんでいる面が腰部にいたるにつれて微妙にくぼみ腹部で再び盛り上がるというように,身体の表面の肉付けの微妙な変化を繊細に表している点など,おおくの身体表現がインド・グプタ朝の仏像にみられる表現と酷似している。ロ)著衣の形式:このように,梁中大通元年銘像の身体表現には,インド・グプタ様式との類似性が認められるが,しかし,他方では,インド・グプタ朝の如米像にその原形をもとめることのできない独特な衣文形式も指摘されるのである。すなわち,梁中大通元年銘像の表面には,左肩から右脇へ走る斜線の製と,衿から裳裾まで垂直に垂下する直線の襲など二種の襲が混合して表されているが,このような衣嬰の表現はインド・グプタ朝の如来像〔図2〕にはまったくみることができない。この斜線と垂直線の混合した着衣形式は,むしろ,アレクサンダー・ソーパー氏も指摘しているように(注6)'南インドのアマラーヴァティーで成立〔図3〕,さらにスリランカにおいて一般的に使用されたいわゆる偏担右肩像の形式である〔図4〕。そして,この偏祖右肩像は,インドネシア・ジャーヴァのセレベス,南ゼンベル,南ベトナムのドン・ズオン〔図5〕,タイのコラット,ノプ・ブリ,ナラティワット〔図6〕などからも出土している(注7)。これらの東南アジアの作例はいずれも7世紀以前に遡るものである。梁中大通元年銘像は,垂直の裳が左腕からではなく,衿から垂下するという点で,-209-
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