1象〔図12〕は,偏祖右肩の法衣に三つの方向に分かれる襲を表している点で,グプタ16洞の如来坐像の形式が,東南アジア系の坐像に著しく類似していることは,とりも山16洞像と異なっているのである。それに対し,南インドや東南アジアの如来坐像にスリランカの彫刻に大きな影響をあたえるとともに〔図10〕,一方では,東南アジアの如来坐像に大きな影響を与えた。いいかえれば,如来坐像に肉髯を表さないことと,両脚をただ上下に積み上げるにすぎないことのふたつの表現は,南インドに源を発し東南アジアの如来坐像において一般的に流行した表現といってよいであろう。天竜山なおさず天竜山16洞の如来坐像が東南アジアの坐像の影響をうけて成立した可能性を物語っているといえよう。ロ)著衣の形式について:さて,こうした推論は,著衣の形式からも再確認されるのである。天竜山16洞像は偏祖右肩の法衣を纏っているが,その法衣の表面には二重の陰刻線を用いて緻密な衣文線が表されている。衣装は左肩から右脇に走る斜線の線と,左腕をめぐる水平の線,そして両脚の表面に描かれる垂直の線など3つの方向に分かれている。ところで,このように偏担右肩の法衣を着用し,加えてその襲が胴体部と,腕部と,脚部の三つの方向に分かれて表される表現は,インド・グプタ朝の如来坐像にはほとんどみることのできない形式である。インド・グプタ朝の如来坐像の遺品の中には,偏祖右肩の法衣に衣文線を表す作例はきわめて少ないが,たとえ偏担右肩の法衣に衣文線を表しているものでも,天竜山16洞の如来坐像にみられる裳形式とは異なっている。ブッダガヤから出土した4世紀の如来坐像〔図11〕においては肩や腕など身体の一部のみに懐を表しており,またデヴゥニモリ出土の5世紀の如来坐膨刻としてはきわめてまれな作例であるが,しかし,この像においては脚部をめぐる袈の方向が垂直ではなく,脚首から放射線状を描いている点で,壁の走る方向が天竜おいては,衣紋を表す場合に時代をとわず左肩から右脇に走る斜線の襲と,腕部をめぐる水平の製,そして脚部をおおう垂直の製の三つを一組として表すことが定型となっている〔図13〕。また東南アジア系の坐像においては,天竜山16洞像にみられるような二重の陰刻線も頻繁に用いられている〔図14〕。こうした衣襲の表現に指摘される共通性からも,天竜山16洞の如来坐像が東南アジアの如来坐像を原形として成立した可自怜性がいっそう強まるのである。-213-
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